子育ての「なんたるか」

世の中には親切の過ぎる人がいて、子育ての話などうっかりしようものなら、
「あなたに問題がある。」
 「家庭の在り方に問題がある。」
などに始まり、子育ての「なんたるか」について次々と有り難いご高説を語り始める。
私には発達障害の息子がいるので、こういった人には大好物のようなのだ。
私は、まあ、わりと聞く。
聞きながら、この人との距離感を図る。
全てとは言わないが、大体の場合こういった人は、自分の人生に重要な人ではない。

一度も一緒に生活をしたことがないのに、相手の人生に興味もないのに、世間話程度の会話からよくもズケズケと一方的な説教をするのかと感心する。
年配の人の場合は記憶の洗浄をし、尚且つ柔軟剤まで投入して、美しく尊い人生観に到達してしまっている。
それをわざわざ否定するほど、私は残酷ではない。
あえて否定するなら実の母親に対してぐらいか。
四半世紀、生活を共にしていない娘に、鉄砲玉みたいだった10代の私のイメージで諭す。

自分も気を付けなくてはとゾッとする。
また、幸せな人だなぁと羨ましくすら思う。
ひょっとしたら私の息子と同じく、コミュニケーションに障害を抱えているのかもしれないと思うと、気の毒にすら思う。
「そんなに優秀な貴方なら何故、凡庸な母親の私と同じステージで生きているのか。」
と言ったらどんな顔をするかなぁと思いつつ、今日の夕飯のメニューを考える。
人は動物だ。
平等を唱えながら、集団の中でマウントを取り合う。
そういう習性なのだ。

社会で評価を受ける人の多くが、
「親はあまり口を出さずに、自分の好きにさせてくれた。」
と言う。
それが理想的な親の姿のようになっている。
でも、私の思うに
「親が子ども以上に自由人だった」
とか、
「親が嗜めるのを諦める程、子どもが奔放だった」
とか、
「親が口出しできなかった」
というのも含まれる気がする。
その人と親の人格や関係性も、生い立ちも、家庭水準も、個性も、詳しく具体的なデータに起こして分析したわけでもない。
参考にするのはいいが、理想にするのは危うい、なんとなくいい話でしかないのだ。

子育ての「なんたるか」なんて、いつの日かAIが人間を飼殺しにする日に定義されるものだと思う。
それまでは、心を尽くして、失敗して、反省して、笑って泣いて、そうやって生きていれば皆正しいとおもうんだよなぁ。

まあまあウチの子、いい子だわ。
それで正解だと思う。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?