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赤道を横切る:第8章 航海

6時30分港口において水先案内人退船、夜に入り稍々風浪あり船体多少動揺す。

10月9日、航海に日を暮らす。東の軟風小波あり、気温83度(28℃)。午前中船内巡回、団員の落着き加減を視察に及ぶ。梅班では相当苦情もあるらしく、発熱した病人に対し「氷を呉れネー」と訴える江戸っ子もあった。散逸した図書の整理もついて一応安心した形である。

基隆出帆の翌日主催者側から申し渡し事項の一つに、船室は兎も角割り当て通り辛抱を願うとして、シーツ交換の十日目ごとに適当に繰替を行うべしとあった。その交代の日が明日に迫って来たので午後本部限りで協議して見た。同じ等級でも比較的上等の部屋で人数も二人のところは勿論問題ないが、かなり気の毒な割り当てに辛抱している向きもある、しかし住めば都という譬【たとえ】もある。暗くとも窮屈なりとも、荷物の都合や居心地の関係から現在のままで良いという気持ちにもなり、結局出発時割当の通り、松竹両班に限り部屋の広狭にかかわらず二人詰めという事にしてケリをつけ、主催者側佐藤、岡野両氏が遠慮して梅班に引き移り、団長室は前述の事情で三人詰めとし最後まで交代を行わぬ事となった。

この日は夕刻より多少風浪高きを覚えたが格別の事なく、翌10月10日も朝来やや船体の動揺を感じたくらいで、正午頃より海上は全く鏡の如き状態となった。午後、余興係の召集により各班対抗の輪投げ競技あり、本部選手坂本老が殊勲を立てて優勝したのは意外。この夜は二等サルンで座談会あり、そうとうおもしろい話も出たようであった。

海防【ハイフォン】から西貢【サイゴン】までは海路813カイリで、大体安南【ベトナムの旧称】沿岸伝いである。ハノイからの鉄道も最近全部開通した。風物観察のためには陸行に越したことはないがそれも出来かねた。ハノイから南172里に安南の旧都、ユエ【現在のフエ】がある。人口7万、王宮の結構壮麗であるとのこと、ユエからさらに南下すること26里にツーラヌ【ホイアンの旧称】がある。安南唯一の開港場で、徳川初期には日本人街もあった。この地の博物館は巨大なリンガ【男性器をかたどった遺物】を有することにおいて有名である。我が封建時代、珍重された紫檀の茶机や伽羅の類は多く安南産で朱印船によってこの港あたりから輸入されたものである。

ツーラヌから更に東南5里半にして肉桂【ニッキ】輸出港のツーラヌ【ダナンの旧称】がある。この市街に残る瓦屋根葺きの橋は日本橋と称する邦人架設の記念物で来遠橋とも命名されている。慶長年間この地で活躍した角屋七郎兵衛の事蹟はあまりにも有名で、日本橋もそれらの人々の寄進によって成ったものと思われる。台北帝大岩生教授著『南洋日本町の盛衰』にその詳細が記されているがここには省略する。

ツーラヌの南に絹の産地キニヨン【クイニョンの旧称】あり、グレラ岬以南海岸線の屈曲しげく、風光棄て難きものありとの事だが、参考書で知っただけで、実際目撃した次第ではない。ニカチャンとファンランとの中間、海水の深く弯入するところは往年日露戦役の際バルチック艦隊が炭水積み取りのため寄港したカムラン湾で、10日の午後4時半にその沖合を通過した。望遠鏡で眺めると汽船らしきものも見えるが、湾内は深く様子が分からぬ。それでも通過せぬ土地を通過したような顔で説明するよりはいくらか良心が満足する。フランスでは将来この地に築港の計画もあるという。すでに着手しているのかも分からぬ。

10月11日午前8時20分、サイゴン河口セントジェームズ灯台を距離4カイリに通過、サンジヤクエス岬にかなり大型の汽船が座礁している、それより50カイリ、ドンナイ河の支流サイゴン河を遡るマングローブ生い茂る有様はハイフォンにも似て一層物凄い。

写真は、ダナンの日本橋。伊勢国松阪の廻船問屋に生まれ、朱印船貿易に携わる貿易家となった七郎兵衛は、寛永8(1631)年、安南に渡った。だが、その2年後に鎖国令が出たため、二度と日本に戻ることができなくなった。日本の家族には手紙で連絡をとり、伊勢神宮などへも寄進し続けた。1928(昭和3)年になって、日本政府は名誉回復し、従五位に叙した。

本書は著作権フリーだが、複写転載される場合には、ご一報いただければ幸いです。今となっては「不適当」とされる表現も出てくるが、時代考証のため原著の表現を尊重していることをご理解いただきたい。

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