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2019年中央アジア+エカテリンブルク旅行(5)

 ロシアのエカテリンブルクに着きました。旅は終盤にさしかかりました。目的地が中央アジアとするとエカテリンブルクは帰路の途中ともいえますが、実際には日本から離れていってます。さらに言えば、ようやく避暑できるところに辿り着きました。ウルムチが予想外に暑かったのはハズレでした。
 初めてエカテリンブルクに来た5年前はキルギスのビシケクからやってきたのですが、入国審査でスパイ扱いされ、まさしく「おそロシア」を身をもって実感しましたが、今回はそのようなイベントは一切なしでした。つまらん。
 飛行機が遅れたため、エカテリンブルクに到着した時はすでに外は明るくなっていました。タクシーで移動するつもりでしたが、すでに市内へ行くバスが運行していたのでそれに乗り込みます。
 バスは鉄道駅が終点です。予約していたホテルはここから南の1905年広場のあたりにありますので、地下鉄に乗って移動します。既に通勤の時間帯なのか、これから仕事場へ向かう様子の人たちを多くみかけます。通常なら皆が働いている中で遊び惚けているのにプチ幸せを感じたりするのですが、寝不足のため頭が反応しません。そのためか、地下鉄駅を降りて地上に上がり記憶を頼りにホテルを探しましたが見つけ出すことができません。そこで予約票を見てホテルの場所をよく調べてみると、なんとホテルは地下鉄駅の出口のすぐそばでした。
 中に入ると階段があり、上がると2階がレセプションのようでした。しかしながら中はしんとしています。客はまだ眠っているのでしょうか。それはいいとして、スタッフも不在です。まさかスタッフも眠っているのでしょうか。数分間中で様子見しましたが、埒があきません。明日は早朝チェックアウトするのにこんなんでは困ります。キャンセル料をとられてしまうでしょうが仕方ありません、ブッキングコムでの予約を取り消して、エカテリンブルク駅前のホテルの予約を入れます。そして地下鉄でエカテリンブルク駅に戻り、ホテルの中に入ります。何の問題もなくチェックインできました。実は日本にいる時このホテルもチェックしていたのですが、ちょっと値段が安すぎるのであんまりガラが良くないホテルなのかと想像していたのですが、全く問題なしでした。最初からここにすればよかった。

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 ホテルにチェックインしました。昨晩はほとんど眠っていません。私はもう若くないので、ホテルで仮眠してから出かけるべきなのですが、子供のようにじっとしていることができません。すぐに出かけてしまいました。
 ホテルの前にあるエカテリンブルク駅の温度計は23度を示しています。ようやく快適な観光ができます。ちなみに5年前は同じお盆のころにも関わらず気温は10度でした。ほぼ冬です。
 三たび地下鉄に乗って1905年広場まで移動します。ご存知の方もいるかと思いますが、旧ソ連圏の地下鉄はとても地中深いところに線路があります。これは一説には核戦争時の核シェルターを兼ねているということですが、一介の人民である私は事の真偽を判断できる材料を持ち合わせていません。またモスクワの地下鉄には、シャア専用、ではなくて政府高官専用の地下鉄があり、非常時にはこれに乗って空港まで脱出することができるというウワサがあったりしますが、こんなことに首を突っ込むと、ある日突然不意に見知らぬ男から「世の中には知るべきではないことがあるのだよ、同志」と耳元にささやかれることでしょう、知らんけど。それよりも気になるのは、一体だれがこの地下鉄の工事を請け負ったのでしょうか。まさか強制収容所にいる囚人による人民への奉仕?これ以上の言及は危険なのでやめておきます、今言ったことはすべて忘れてくさい。

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 地下鉄駅から北上し、1905年広場に面しているレーニン通りに辿り着くと、今日も同志レーニンが出迎えてくれます。そして広場の反対側に立派な建物があるのですが、これは何の建物なのだろう、もしかしてKGBエカテリンブルク支部かと想像していましたが、ロシア語の看板を見るとエカテリンブルク市議会と読めます。ドゥーマ(Дума)なんて言葉を見にしたのは高校の世界史の教科書の中のロシア革命のページ以来かもしれません。
 レーニン通りは今日も路面電車がかっ飛ばしています。が、私は鉄オタではないので、そのようなものには目もくれず観光を続けます。十分に目をくれているって?あれは車を撮っているのである。ああ、まったく邪魔なトラムだわい。

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 エカテリンブルクが所在するウラル地方は、初代ロシア連邦大統領のエリツィンの出身地です。といっても今はプーチン現大統領の存在感が大きくて、エリツィンのことを覚えている日本人はどれだけいるのでしょうか。ソ連崩壊という歴史的出来事の中の中心的人物であるのは間違いないのですが、それも28年前のことです。
 ソ連崩壊による政治的混乱の中、経済政策については、社会主義経済から資本主義経済への急激な移行のために避けられないことだったのかもしれませんが失策が目立ち、ソ連の事実上の継承国家としてのロシアの威信も低下しましたが、それでも共産党勢力による巻き返しを許さなかった手腕は評価されるものでしょう。
 そんなエリツィンの記念館が完成したというニュースを日本で目にしたので、そこへこれから行きます。レーニン通りから高級ホテルハヤット・リージェンシーの方へ向かいます。やがてエリツィンセンターとの案内板のあるその建物に到着します。初めてエカテリンブルクに来たのは5年前ですが、その時からエリツィン記念館というものがあるとの情報を得ていましたが、その時はまだ建設中で、今回ようやく見学することができます。とはいっても私は別にエリツィン支持者というわけではなく、かといってプーチンファンでもなく、ましてやゴルバチョフ、ブレジネフ、フルシチョフ、スターリンのサポーターではありません。レーニンに対しては気まぐれで同志呼ばわりしてはいますが。
 それでは中に入ります。受付がありますのでそこでチケットを求めようとしました。ところが本日は休館日とのこと。そりゃないぜ、受付同志。わしはわざわざ日本からこれを見に来たんだぜ、なんとかしてくれたまえ、と言おうかと思いましたが、こんなシロモノをわざわざ日本から見に来るなんてどうかしていると奇人変人扱いされるのも恥ずかしいので名誉の撤退です。またエカテリンブルクでの宿題が残ってしまった。

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 またもやエリツィン記念館に入ることができませんでしたが、気を取り直して観光を続けます。 記念館は市内中心部を流れるイゼット川に面していますが、その対岸に「血の上の教会」があります。以前にも触れていますが、ここは最後のロシア皇帝ニコライ2世が殺害されたところです。ただし教会自体は後日建設されたものです。正教の教会の内部は写真撮影が憚られる雰囲気があります。

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 血の上の教会から東へ500メートルほど行ったところに「スヴェルドロフスク戦争記念」モニュメント、通称「黒いチューリップ」があります。
 これも旧ソ連内のあちこちにある無名戦士の墓の類なのかとおもいますが、モスクワや他の都市のそれと違うのは、若い兵士による立ち番がないことです。まだお昼前なので営業時間終了というわけではないはずです。そして立ち番の代わりに、しんどそうに座り込む兵士の像が据えられています。像の台座には「アフガン」という文字があり、その両脇の壁には人の名前があるので、それはソ連のアフガニスタン侵攻で戦死した兵士の名前なのでしょう。そして像の奥には鐘があり、台座には「チェチニア(チェチェン)」とありますので、こちらはチェチェン紛争で亡くなった兵士の名前なのでしょう。
 なんだかこのモニュメントは、旧ソ連とロシアの黒歴史をあからさまに、もしかしたらやや体制に対する批判的な感情もこめて表現しているような気さえします。そもそもこれを見に行こうと思ったのは、船戸与一著「緋色の時代」の影響によります。この小説の主要な舞台はここエカテリンブルクですが、「黒いチューリップ」はアフガニスタンから復員したものの、社会復帰することができなかった帰還兵が建てたものという説明がされています。ソビエト革命防衛のために戦ったのに、世間は帰還兵を受け入れる環境がないために、やむなくマフィアなどの非合法組織に入らざるを得なかった彼ら。そんな彼らの鬱積が込められているモニュメントです。ただロシアなら「批判」は通常なら「ぶっつぶす」のですが、政府は彼らに負い目があったのか、結局「黒いチューリップ」はぶっつぶされることなく今に至っています。
 しかしながら、船戸与一もエカテリンブルクという日本人のほとんどが知らない街を舞台とした小説をよくも書く気になったものです。もし社会に不満を持つネオナチのような連中が屯していたらどうしようかとも思っていましたが、幸いなことにほぼ誰もいませんでした。

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 エカテリンブルクはロシアでも有数の大都市なので、高層ビルもシベリアロシアで一番高いと言われているものがあります。
 レーニン通りより1本南の筋にある「ヴィソツキー」というビルは52階建てで、ビジネスオフィスとホテルが入居しています。実は今朝ホテルを探しているとき、いっそのことここに泊まろうかとも思いましたが、空きはありませんでした。
 ヴィソツキーとは、ソ連時代のロシアの著名なシンガーソングライター「ウラジーミル・ヴィソツキー」のことを指していると思われます。ヴィソツキーがエカテリンブルクとどんな縁があったのか、いろいろ調べてみましたが正直なところよくわかりません。あえて推察すれば、全ロシア級の著名人なので、エカテリンブルクが称えたっていいじゃないか、ということでしょうか。
 そもそもヴィソツキーって誰?だと思いますが、彼はギターをひきながらしわがれた声でがなるように歌うのが特徴的で、リズムは哀愁的なのですが、その歌詞は体制批判的なものも少なくありませんでした。ヴィソツキーが歌ったのは「悪の帝国(レーガン米国大統領:当時)」ソ連全盛期の頃で、ソ連は体制批判を決して許しませんでしたので、彼の歌は発禁モノでしたが、それでも人々の間で彼の歌のカセットテープが出回ったと言われています。自分の身を守るためには密告されそうな危険なブツは所持しないというのがソ連人の処世術でしたが、彼の歌はそんなことを凌駕してソ連人の心をつかんだということでしょうし、一般庶民にとってはソ連はそれほど重苦しく抑圧的な体制だという共通認識があったのでしょう。それ以上の詳しい説明はウィキ様に一任します。

 途中軽く降る雨を避けながらゆっくりと歩き、ヴィソツキーにと思われる高層ビルの入り口に到着しました。ここにはヴィソツキー博物館もあるらしいのですか、どこにあるのかよくわかりません。ひとまずビルの最上階に上がるため、チケットを購入して専用エレベーターに乗りこみました。そして最上階のベランダから外を眺めますが、天気が曇りだからかあまり感動はありません。まあ高いところは好きなので景色自体は悪くないのですが。
 1階に戻り、ヴィソツキー博物館を探します。そしてそれらしきものの入り口がビルの入り口にありましたが閉まっています。エリツィン記念館もそうでしたが、月曜日はどこもかしこも閉まっているのでしょうか。また宿題が残りました。

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 エカテリンブルクですべきことを終えました。ホテルに帰りますが、その前にエカテリンブルク駅前で昼食です。前回の旅行で駅前に入りやすいカフェ(軽食堂)を見つけて利用しましたので、今回もそこに行きます。
 そこは中央アジア風のプロフ(ピラフ)があります。ただしレンジでチンしたブツではありますが。そして、エカテリンブルクは住民のマヨネーズ消費量が世界一(ギネス登録済み)というマヨラーの街ということで、マヨネーズサラダ(サラダマヨネーズ?)も注文します。ビールはバルティカが欲しかったのですが、ないようなのであるものを適当に注文。それからシャシリク(ヒツジの串焼き)も注文したつもりでしたがなぜか出てきません。しかしながらビールのおかげで眠くなってきたのでそのことはスルー。

 ホテルの部屋に着いたらすぐにお昼寝、のつもりだったのが、気が付いたら真夜中。それでもまだ眠り足りなく、結局翌日のチェックアウトの時まで失神。

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