宝塚の団員自殺と日本社会

連日、ワイドショーには宝塚歌劇団の自殺とパワハラ疑惑が取り沙汰されている。ふと思うのだが、これってなにもこの劇団にかぎった話ではなくて、日本社会でむかしから問題になってきた事柄でもあるということ。

わたしは昔から暴力とか先輩後輩の上下関係が嫌いだった。暴力とか上下関係とかを憎むがゆえに、逆にそういったものに惹かれるという倒錯した心理もあり、それゆえに戦争とか軍隊といったテーマに興味を持ち続けてもいた。
 そこで折にふれて感じるのは、日本人はじつは世界でもっとも暴力的な民族なのではないか、ということ。かつての軍隊の野蛮さ、暴力性について見れば、外から見るとと特攻や玉砕、虐殺・捕虜の虐待となって表出されたし、それが内に向かうと、内務班における私的制裁、切腹、集団自決といったことが歴史上見られた。

戦後になったら、憲法9条のもとで平和の民になったから関係ないかといえば、まったくそんなことはない。これまでの暴力性が別のかたちに転化されただけだと考えられる。
 たとえば、戦後日本の高度経済成長の過程で、日本人は“エコノミックアニマル”と揶揄されるほど企業のために一身に働き、その一方で過労死の問題があったり高い自殺者数をずっとほこってきたわけだから。

そして、こうした問題の延長線上に、今回の宝塚家劇団の団員自殺という問題があったと見ることができると思う。
 まだ25歳かそこらの歳で入団して6年目らしいけど、それだけの経験を積んでも上級生から「ヘアアイロンを額に当てられた」などの暴行を日常的に?受けていたらしい。そして劇団側の対応は、案の定、事実の否定と自分たちの名誉を守ることに躍起になっているように見える。
 この亡くなった団員に限ったことではなく、宝塚が上下関係に異様に厳しいことは前にもどこかで聞いたことはあった。だから、体質的にそういういかにも日本的な組織なんだなと思う。

日本の社会は、全体から見えればいかにも自由に民主的な空気に包まれたように見えるけど、この事件が示すように、個々のそれぞれの組織や人間関係の次元から見てみると、いかにも度が過ぎるほど前時代的、後進的な面を多々残しているように見えるのである。
 たとえば、かんぽ生命やJA共済における自爆営業があったり、ビッグモーターの不正経理の問題があったりした。これもパワハラ、現場無視の過剰なノルマが社会問題にまで発展した例であろう。芸能の分野でいえば、ジャニー喜多川による性加害問題も以前からあったようで、最近になってようやく公になり取り沙汰されるようになった。スポーツの分野でも、野球や武道など伝統ある古いスポーツほど上下関係にやたら厳しかったり、いまだに体罰が問題になったりしている。

このように見てみると、宝塚で起きた事件はじつは日本社会の縮図ともいえるのかも知れない。また超高齢化がすすむ日本において、20代という年齢で命を絶たなければならないことは悲劇であると同時に、社会にとって大きな人的資源の喪失である。
 問題は、こうした事柄に対してわたしたちは何ができるのか? どうすれば変えていけるのか? というところだろう。日本人一人ひとりが自問して、考えていくことが求められていると思う。 
 戦争中、砲兵少尉として従軍した作家の故・山本七平氏によると、「日本軍のいちばん大きな罪は言葉を奪った」ことにあると指摘していた。戦時中は、天皇や軍部、上官を批判することが許されなかった。いまは平和な時代であるけれども、先輩には逆らえない、上司には逆らえない、というような空気がまだ残っているのではないだろうか? 
 まずはそこから変えていく必要があり、そのためには上下関係にこだわらず、対等な関係で対話ができる社会を構築することが求められているように思います。

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