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ただ咲いて、ただ散っていく花

今日のおすすめの一冊は、平井正修氏の『花のように、生きる』(幻冬舎)です。その中から「おもしろいことを見つけられる人」という題でブログを書きました。

本書の中から、「ただ咲いて、ただ散っていく花」という文章をシェアしました。

人は社会で、集団のなかで生きていますから、誰でも周囲の目が気になります。自分はどう見られているのか、どの程度のレベルの人間と評価されているのか。一度もそれを考えたことがない、という人はいないでしょう。とりわけ、自分はがんばった、という思いがあるときは、そのことを認めて欲しい、と思います。
それが叶わないと、「うちの上司は見る目がない」「見るべきところを見てくれないと、モチベーションだって上がらない」ということになる。しかし、あなたががんばるのは、人に見てもらうためなのでしょうか。やるべきことをがんばってやっているので、ほんとうはそれだけで完結していませんか?言い方を変えれば、自分ができることはそこまで、ではないでしょうか。
花は咲いても「見てくれ」とはいいません。目にとめてくれる人がいようと、素知らぬ顔で通り過ぎる人がいようと、じっとそこで咲いているだけです。花にとっては、咲くことが「できることのすべて」だからです。もちろん、花は言い訳もしないし、ふてくされもしない。
「なんだ、もう散ってしまったのか。せっかく見にきたのに…」。 そんな声が聞こえても、「昨日、強風が吹いたじゃないですか。あの風のせいですよ、風の!」なんて素振りを見せることもないし、「思ったほど綺麗じゃないね。こりゃあ、評判倒れだな」と評されたって、「ちぇっ、勝手なこといってやがる。見にくる時期が遅いってんだよ!」ともいいません。
もちろん、花がしゃべるわけもないのですが、あるがままのその風情はそんなことを思わせもします。翻って人は、「~のせい」という台詞(せりふ)をたびたび口にするし、拗(す)ねたり、ふてくされたりすることも、多々あるのではありませんか?
たしかなのは、見て欲しいという思いや、言い訳したりふてくされたりする姿勢に、人は振りまわされるということです。花のようにしっかり大地に根を張って、揺るがずに生きませんか?

相田みつをさんのこんな詩があります。「花には人間のような/かけひきがないからいい/ただ咲いて/ただ散ってゆく/からいい/ただになれない/人間のわたし」

花は置かれたところで咲きます。そしてまわりと比べることもなく、美しさを自慢することもなく、ただ咲いて、ただ散っていきます。まさに、禅の言葉にある「潜行密用(せんこうみつよう)は愚の如く、魯の如し」です。人知れず行う徳行(陰徳を積むといいます)は、まるで、愚か者のように、また、でくのぼうのように行うことだ、と。

ただ咲いて、ただ散っていく花のような人生がおくりたいものです。

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