「処女受胎~あれからの釈華~」『ハンチバック』二次小説<下>
大学病院に着くとすぐ明日のための検査を受けた。内診もされたけれど、もう与羽の心拍やエコー写真は見せてもらえなかった。何も言われないものだから、私は思わず、「赤ちゃんは生きていますか?元気ですか?」と尋ねてしまった。明日には始末する命だというのに。医師は「赤ちゃんは大丈夫ですよ」とひと言つぶやいた。別れ難くならないために、あえて何も見せてはくれなかったんだろうけど、少し寂しくなった。そしていつもの広い個室に私は移された。
「釈華ちゃん、ほんとにひとりで大丈夫?今夜だけは付き添いがこの部屋に泊まってもいいって先生は言ってくれてたけど。」
茉莉亜さんは病室に昨日買ったレウィシアを飾りながら尋ねた。本当は鉢植えの根づいている花を病室に持ち込むのは縁起が悪いと分かっていたけれど、私が頼んで持ってきてもらったものだった。それからあの絵本も手の届きやすい場所に置いてもらった。
『ありがとう、茉莉亜さん。私ならひとりで大丈夫だから。この部屋に泊まるのは慣れているし。』
「そう?じゃあ帰るけど、何かあればいつでも連絡してね。すぐに駆け付けるから。」
茉莉亜さんに申し訳ないと思ったし、たしかに心細いけれど、今夜だけは与羽と二人きりでいたいと思った。私には与羽がいるから大丈夫だった。
「うん、ありがとう。」
「それとね、やっぱり事情が事情だから、山下マネージャーにだけは、私から釈華ちゃんが入院した本当の理由を話してもいいかしら?初期とは言え、命に関わることもある手術だから…。山下マネは釈華ちゃんの親代わりみたいなものだし。」
今日まで私が作ったおとぎ話みたいな真実を知っているのは茉莉亜さんだけで、山下さんにさえ秘密にしていた。検査入院と誤魔化していたけれど、いつまでもそういうわけにもいかないことは私も分かっていた。
『うん…じゃあ茉莉亜さんから山下さんに伝えてください。よろしくお願いします。』
「良かった、釈華ちゃんが了承してくれて。じゃあ私は帰るけど、本当にいつでも連絡してね。また明日来るから。」
彼女が病室から出ると入れ替わるように、明日、私の手術を担当する産婦人科医が病室に来た。
「井沢さん、検査後の体調はどうですか?」
「身体は元気だと思います。メンタル的には弱っていますが…。」
医師は私の血圧や心音を確認しながら、こう言った。
「気持ちが塞ぎ込んでしまうのは無理もありません。ある意味、正常な心の反応ですが、落ち込み過ぎると身体に良くないので、明日のためにも今夜はぐっすり眠ってくださいね。」
『わかりました。ところで先生、私…この子をちゃんと供養したいんです。だから手術が終わったら亡骸を引き取らせてもらえませんか?』
私が入力したアイフォンの文字を読んだ医師は表情を翳らせた。
「井沢さん、申し訳ないのですが、胎児をお渡しすることはできないんです。十一週六日目までの中絶手術の場合、ルールで胎児は病院側で引き受けることになってます。十二週以降なら、法律で母親側が火葬もする義務があるのですが…。井沢さんの場合、明日で九週三日目なので、こちらでお預かりすることになります。」
『そうなんですか…。知りませんでした。じゃあ先生、手術を延期して十二週まで待てば、私は赤ちゃんに会えますか?せめて一度、会いたいんです。ちゃんと命に触れてから、供養したいんです。』
「井沢さん…お気持ちは分かりますが、産むから週数を待つというならまだしも、ただ胎児に会いたいから手術を先延ばしというのは、結局母体に負担をかけるだけです。井沢さんの身体の場合、堕胎するなら一日でも早い方があなたの命を危険にさらす可能性を下げられるんです。主治医の先生も仰る通り、出産は難しいのですから、一刻も早く手術を受けるしかないんです。」
「そうですよね…わかりました。すみませんでした。」
「こちらこそ、井沢さんの気持ちに添えなくて申し訳ないです。子の命に関わることだから、母親が取り乱してしまうのも分かるのに、何もできなくて、すまない…。けれど、明日は井沢さんの身体に細心の注意を払って、手術するから安心して任せてください。」
「明日、よろしくお願いします。」
私は物分かりの良いフリをして、明日、与羽と私の命を託す産婦人科医に挨拶した。
自分の胎内で生きている命なのに、自分の思い通りにはできないなんて知らなかった…。おそらく初期の胎児はまだ組織が弱すぎて、触れたり吸引したりしたら原型を留められなくてすぐにぐちゃっと形が変わってしまうから、そういうのを母親に見せないためにも、病院側が引き受けるのだろう。ほとんど血液の塊のようなものを素人に渡すのは衛生上も良くないだろうし。けれど私は与羽の血液の一滴、細胞のひとかけらでもいいから、手元に残したかった。火葬してほんの僅か残る遺灰を身につけて、生涯弔い続けたかった。何でもいいから、与羽が生きていた証と生まれようとした痕跡をこの目で見て、私の子宮内で育まれていた命にたった一度でいいから、触れたかった。中絶ではなく流産なら、ひと目は見れただろうし、誰にも気づかれない場所でそれが起きたなら、自分で胎児の亡骸を引き受けることはできるのに…。
週数次第で命運が決められてしまうなんてヒトの命って侘しい。十二週以降の流産・死産なら火葬が義務付けられているから、嫌でも胎児を見られる。前に茉莉亜さんが教えてくれたように二十一週六日目までは生まれても命は見捨てられる可能性が高くて、二十二週以降に生まれた子ならその命は救命される…。命の価値ってそんなに容易く割り切れるものなのか。
中絶費用だって、そこそこお金を持っている私からすれば安すぎる。私の場合は二泊三日の入院を伴う手術だから、三十万円にはなったけれど、健常者が妊娠初期に中絶する場合、日帰りがほとんどだという。その場合、費用は十万から十五万程度で高くても二十万らしい。貧困女性からすれば安くない出費で、中絶費用を用意できなくて結局、産んでしまう母親もいるというけど、命を始末するのにたった十万から三十万なんて信じられない。私は…田中さんの精子に一億五五百万円の価値をつけたというのに。与羽のためなら、それくらい支払ってもいい。与羽の命はそれ以上の価値があって、お金では価値なんて決められないのに。本来、命というものはそういうものだろう。
どんなに大金を所持していても、ままならない命を胎内に抱えている私は、釈然としないまま、自分の無力さに押しつぶされそうになっていた。
何か食べていいのは二十時までと決められていた。与羽に与えられる最後の晩餐は病院食のたまごスープ、ご飯、ほうれん草のソテーに小さな和風ハンバーグだった。どれも薄味だから、やっぱりご飯にはふりかけがほしいよね、与羽、なんて思いながら食べていた。与羽に栄養を届けるためと思うと、残さず食べられた。明日には消してしまう命に栄養を届けて何になるのだろうとまた虚しさが込み上げてきた。
手術のためによく眠ってくださいと言われても、落ち着いて眠れるはずもなかった。『もうじきたべられるぼく』を読んだり、音楽を聴いて過ごしていた。YouTubeのとある作業用プレイリストの中に子守歌になるような曲がたくさんあったから。
《さしのべた手は 空回り そうね まっすぐ 歩けるの おぼつかない 足取りで 耳朶から イルカは 海を見た 大きな森を 気が遠くなる程の ころがる星を 切り刻まれて光る そのかわいい胸を 抱いて おやすみ》
Cocco『ウナイ』
《そっと人知れず ほころぶ花のように あなたを静かに 見つめています とても小さく はかない花だけど あなたの幸せを 願っています…舞い上がれ 綿帽子 ささやかな願い 届くよう》 アン・サリー『小さな想い』
《かなしみは 数えきれないけれど その向こうできっと あなたに会える 繰り返すあやまちの そのたび ひとは ただ青い空の 青さを知る 果てしなく 道は続いて見えるけれど この両手は 光を抱ける さよならのときの 静かな胸 ゼロになるからだが 耳をすませる 生きている不思議 死んでいく不思議 花も風も街も みんなおなじ》
木村弓『いつも何度でも』
《あなたに触れた よろこびが 深く深く このからだの 端々に しみ込んでゆく…いまのすべては過去のすべて 必ず また会える 懐かしい場所で いまのすべては 未来の希望 必ず 憶えてる いのちの記憶で》
二階堂和美『いのちの記憶』
与羽に聴かせたくて…。そのうち茉莉亜さんが窓辺に置いてくれたレウィシアが気になり、一度起き上がって車椅子に乗り、確認した。室温は暑すぎないだろうか、昨日から何度も環境を変えてしまったけれど、花は大丈夫かな…。ピンク色の蓮の花の色によく似た色のその花は環境を変えられても、凛と咲き続けていた。
窓の外を見ると、夜空には見たこともないほどの満天の星が輝いていた。立春が過ぎたとは言え、今夜はよく晴れていて冷えているせいか、星空が美しく見えた。よく見ると星は瞬いているようにも見えた。トクトク瞬く心拍を見せてくれたこの子のように、その命を刻んでいた。地球に星の光が届くまで、永い時間がかかるから、今光って見える星はとっくに命尽きて、消滅している場合もあると本で読んだことがあった。今見えている星はすでにその姿はないのかもしれないし、星が力を振り絞って最後に残した光なのかもしれない。けれど遥かな時を経て、こうしてちゃんと私の目にその光は届いている。だから与羽も、心拍は止まるとしても、その命を永遠に輝かせることはできるのかもしれない。私が産めなかったこの子の存在を忘れずに、生かし続けることができれば。どこかで与羽の命は光を放つことができるのかもしれない…。
窓から星を眺めた後、ベッドに戻り、与羽に話しかけ、懺悔した。ごめんね、与羽…。ママがもう少し丈夫な身体で、障害者じゃなかったら、あなたの命を守れたかもしれないのに。産んで、一緒に生きることができたかもしれないのに、あなたの命とこれからの時間を奪ってごめんね。私は与羽の大事なものを奪うのに、与羽は私にたくさんの心を与えてくれたね。神さまのいたずらなのか、ふいにあなたを授かって、最初は戸惑ったし、不安を覚えた。けれど、生まれるために早く大きくなろうと懸命に心拍を刻み続ける与羽の命を見せられたら、思わず感動してしまったよ。命ってこんな風に始まるんだって、こんなに綺麗なんだってその尊さに気づいたら、世界が違って見えたの。私が生きる世界には美しいものが存在することを与羽から教えられた。だからあなたにも稀に美しいものと遭遇できるこの世界を見せたくなった。これから成長するその足でこの世界を自由に歩き回って、探してほしかった。けれど自力で歩くことさえ困難な私がそれを願うのは無謀だと気づかされたの。
一瞬でもこんな私と一緒に生きようとしてくれて、共に生きる未来を夢見させてくれてありがとう。与羽は私の人生の希望の光だったよ。初めて、人生に希望の光が灯った気がしたよ。だから産んで会いたかったし、あなたに触れて、感謝と愛を伝えたかったけれど、それさえ無理みたい…。何も、何ひとつしてあげられなくて、ごめんね。せめて与羽がいたこと、生まれようとしてくれたことだけは忘れないから。つらくても覚えているから。たとえ自分のことを忘れても、私の身体と命が死ぬまで与羽を覚えているから…。
私は込み上げてくる涙を抑えながら、一晩中、取り留めのないことばかり考えていた。あまり泣くと痰が絡んでむせるから、自分は思いきり涙を流すことさえ許されない人間なのかとうなだれた。痰じゃなくて、胎児を吸引される日が来るなんて…。悲しくて、虚しくて、苦しくて、悔しくて…止めようとした涙は夜じゅう溢れて、枕を濡らした。痰が絡んで死んでも構わないと思った。この子と一緒に死ねるのなら。
ほとんど眠れなかったというのに、一瞬眠った隙に母はまた夢に現れた。
「釈華ちゃん、今日必ず中絶するのよ。ためらってはダメよ。」
インベンション13番というピアノの調べが奏でられている空間にある、不思議な扉の前に立っている母は、はっきりそう言った。分かってるよ、ママ。今さら逃げたりしないから。今までままならないことが多い人生だったけど、今回のことで本当にどうにもならない人生なんだって、改めて思い知らされたから。自分の身体なのに、命さえ自分の手中にないと気づいたから。
「おはよう、与羽。」
張っているおなかをさすりながら、挨拶した後、早朝に最後に飲める水を飲んだ。与羽に与えられる最後の水分だった。
「最後まで一緒にいるから、大丈夫だよ。」
重度身体障害者とは言え、手術台の上に乗るのは初めてだった。
「井沢さん、これから麻酔を入れますからね。麻酔が入ると、少し動悸がすると思います。」
手術台の上に寝かされ、麻酔を打たれた私は、まるで宇宙人に囚われ人体実験を待つ人間のように自由を奪われ、身動きがとれなくなった。なす術もなく、手術台を照らすUFOのような無数の眩い光に圧倒されているうちに、心臓がドキドキしてきた。
「井沢さん、井沢さん、分かりますか?起きてください。」
何時間も何日も過ぎた気がしたけれど、手術に要した時間はほんの十分程度だった。
何も発せないうちに、手術台から降ろされ、手術室に隣接する部屋のベッドに移された。
ベッドに横たわっていると、おなかに力が入らなくなっていることに気づいた。今朝まではたしかに子宮のあたりが張っていたのに…。元通りの薄っぺらい自分の身体に戻った気がして、無念な気持ちが込み上げた。そして生理のような出血があるため、大人用のオムツを履かされていることに気づいた。私はまるでこの世に生まれたての赤ちゃんだった。手術中に一度死に、生まれ変わった気がした。
「術後に必要なお薬を入れますからね。」
点滴を入れられた私は三十分ほどその部屋にいたと思う。その間に茉莉亜さんと山下さんが駆けつけてくれた。彼女たちは私に気を遣って、何も話さず、黙って私の側で寄り添い続けてくれた。そして点滴が終わると、病室に戻された。
まだ薬が効いているせいか、悲しいとか悔しいとか考えられずベッドの上でぼーっとしていると、主治医と手術を担当した産婦人科医が二人揃って病室を訪ねてきた。
「先生方、ありがとうございました。」
まるで保護者のように山下さんと茉莉亜さんが私より先に頭を下げた。
「いえいえ、井沢さん。よくがんばりましたね。」
「出血も少なくて済みましたよ。」
二人の医師はそう言って私を励ました。
「はい…ありがとうございました。」
私はそう言うのが精一杯だった。
「良かったら、供養に使ってください。赤ちゃんを引き取らせてはあげられませんが、せめて写真をどうぞ。昨日の写真と今日の写真です。」
そう言って、産婦人科医は二枚のエコー写真を私に手渡した。
「成長が早い方で、九週としては大きな赤ちゃんでしたよ。」
九週二日目と九週三日目の写真に写る白い影は、前にもらったエコー写真と比べたら、れっきとした人型をしていた。私の赤ちゃんはちゃんと人間になろうとしていた。頭とおしりの位置も分かるし、小さな手足も見えた。二センチまで成長してくれていた…。
「ありがとうございます…。すごい…こんなに大きくなってたんだ…。」
写真を見てもまだ涙は溢れなかった。心を失くしてしまったせいかもしれない。
「井沢さん…私が産婦人科の先生に見せないでほしいとお願いして、昨日はエコー写真さえ見せてあげられなくて申し訳なかったね。」
主治医はそう言って頭を下げた。
「いえ…もうエコー写真はもらえないと思ってたので、今日もらえて良かったです。」
「今夜はしっかり眠ってくださいね。もう飲食も自由にして構いませんよ。」
産婦人科医はやさしく私に言った。
私は無理に笑顔を作って、黙って頷いた。けれど、何も食べたいなんて思えなかった。飲食したところで、もう与羽には一滴の水分さえ届けてあげられないのだから。我が子という主を失くした空っぽの子宮を秘めた身体は生きる気力も失くしているようだった。
医師たちが去った後、私は山下さんに謝罪した。
「山下さん…黙っていてすみませんでした。」
「小湊さんから事情を聞いて、驚いたわ。もっと早く話してくれたら良かったのに。でも釈華さんの手術が無事に済んだから、今はそれで十分。何も力になれなくてごめんね…。今日はとにかく何も考えないで、静養して。きっと寝不足だろうから。」
山下さんは叱ることなく私の身体を気遣ってくれた。
「釈華ちゃん、何か飲みたいものはない?売店で好きなドリンク買ってくるわよ。」
「うん…水で大丈夫だから。」
グレープフルーツジュースが飲みたいとか、いつもはわがままを言う私が何もリクエストしないものだから、茉莉亜さんは少し寂しそうだった。
「じゃあ私は、主治医の先生に呼ばれているから、先に行くわね。」
「はい、ありがとうございました。」
一足先に病室から出て行く山下さんに私は挨拶した。
いつもは饒舌な茉莉亜さんと普段から寡黙な私だけが病室に取り残された。静かな時間がゆっくり過ぎて行った。
茉莉亜さんは何も言わずに黙って広い病室に数脚ある椅子に腰かけて、窓の外を眺めていた。
「釈華ちゃん、雪が降ってきたわよ。」
「えっ?雪?晴れているのに?」
その日の空は朝から晴れ渡っていた。
「風花よ。今年は雪がほとんど降らなかったのに、立春過ぎてから降るとはね…。」
私はベッドから起き上がり、茉莉亜さんが見ている空を見た。
「ほんとだ…風花…。」
天使の羽みたいにふわふわな雪が青空の中で舞っていた。冬に授かった命だというのに、結局与羽には一度も雪を見せてはあげられなかった…。
「きれいね…。」
この美しい空を与羽にも見せてあげたかった。雪に触れさせてあげたかった。小さな雪うさぎを作ったり、一緒に雪遊びもしてみたかった。雪にはしゃぎまわる与羽の成長した姿を想像すると術後初めて目に涙が滲んだ。
「茉莉亜さん…私…この空をあの子に…与羽にも見せたかった。一緒に雪遊びしたかった。一緒に生きていたかった。冬も春も夏も秋も…この先ずっと…。」
ひとつの尊い命が消えたというのに、どうしてこんな日に限って、空はきれいなんだろう。昨夜の星空も見事だったし…。あの子がこの世から去ることに未練を感じてしまいそうなほど美しい空をいつの間にか私は睨んでいた。
「うん、うん…。大丈夫。釈華ちゃんが思い続けていれば、きっと与羽ちゃんにもこの世界で感じられるものは届くはずだから。これからも心の中にいる与羽ちゃんと二人で生きることができるから、大丈夫。釈華ちゃんの愛はちゃんと届いているわ。」
泣いているせいか長文を話したせいか咳き込む私の背中を彼女はさすり続けてくれた。
《それはとても晴れた日で 泣くことさえできなくて、あまりにも 大地は果てしなく 全ては美しく 白い服で遠くから 行列に並べずに少し歌ってた…それはとても晴れた日で 未来なんていらないと想ってた 私は無力で言葉を選べずに 帰り道のにおいだけ 優しかった 生きていける そんな気がしていた》 Cocco『Raining』
私が落ち着きを取り戻すと、茉莉亜さんも病室から出て行った。何も食べたくないはずなのに、丸一日何も栄養を摂っていない胃袋は給食をすべて平らげてしまった。何もする気になれなかった。本を読むのも、音楽を聴くのも億劫に思えた。ただ眠気に襲われ、私はいつもより早く就寝した。
いつものように母は夢に現れた。言葉は何も発することなく、寂しげな微笑を浮かべていた。そして妊娠して以来、夢の中で開いていた正体不明の扉は、少しずつ音が小さくなっていたイ短調のピアノ曲が終焉すると同時に静かに閉じられた。母の姿と共に。
朝になると開いた覚えはないラジコの音声に起こされた。何も聴きたくないからすぐに消そうと手を伸ばした。
《最初からこうなることが決まっていたみたいに 違うテンポで刻む鼓動を互いが聞いてる…ダーリンダーリン いろんな角度から君を見てきた 共に生きれない日が来たって どうせ愛してしまうと思うんだ ダーリンダーリン Oh My darling 狂おしく 鮮明に 僕の記憶を埋めつくす ダーリンダーリン》
《遠くの雪の街で 弾む息を並べて 夜空の先に見据えてたのは未来だった 君と出会えた事が 僕のすべてと言い切る 他にはひとつも残らなくていいくらい》
《諦めないと決めた空の下 ああ、君のことが愛しく思えたよ 風の向こうで 花が咲いていた 一人じゃないんだと 守りたいと願った なりふり構わず 君の涙を僕に預けて 大丈夫さ 小さく頷いてほしい 手に入れたモノも失ったモノも その先で輝くモノも、いつかきっとさ 2021年しるしをつけよう 君と僕がおんなじ世界で息をした その証として》
《チェスボードみたいなこの世界へ僕らは ルールもないままに生まれてきた…美しい緑色 こちらには見えているよ あなたが生きた証は 時間と共に育つのでしょう 美しい緑色 役に立たない思い出も 消したいような過去も いつかきっと色付くのでしょう そしてチェスボードみたいなこの世界でいつか あなたの事を見失う日が来ても 果てないこの盤上でまた会えるかな? その答えが待つ日まで 知らないままでただ息をする》
止めようとしたはずなのに、あまりにも今の私の心に刺さる曲ばかりで、気づけば聴き続けてしまっていた。何でも諦めるのが当たり前の人生だったけれど、与羽の命は私のすべてと思えたし、諦めたくなかった。ルールもないまま生まれてしまった私だけど、なりふり構わず、あの子を守りたかったと思いながら…。
「Mr.Children『しるし』、山内総一郎『白』、菅田将暉『ラストシーン』、Official髭男dism『Chessboard』四曲続けてお送りしました。本日はリクエストにもお応えします。」
この番組ではパーソナリティ―の気まぐれで稀にリクエスト曲が放送されることがあった。
「ラジオネーム・与羽(とわ)さんからいただいたリクエストです。尊敬する作家の紗花(しゃか)さんへ。この前は返信できなくてすみませんでした。あなたが紡ぐ新たな物語を心待ちにしています。昨日、聴いていた曲を届けます。」
《昨日はクルマの中で寝た あの娘と手をつないで 市営グランドの駐車場 二人で毛布にくるまって…あの娘のねごとを聞いたよ ほんとさ 確かに聞いたんだ…ぼくら夢を見たのさ とってもよく似た夢を》
「RCサクセション『スローバラード』でした。紗花さん、聴いていましたか?今日も皆さんにとって素敵な日になりますように。」
田中さんはきっと、私がこのラジオ番組をよく聴いていることを知っていたんだと思う。田中さんらしくないラジオネームに思わずドキっとしてしまった。これはきっと彼なりの与羽と私に対する思いやりなんだろう。彼らしからぬセンスの良いその曲に思わず微笑と涙がこぼれてしまった。
与羽…ママは案外、孤独じゃないのかもしれない。亡くなったママのママも、山下さんも茉莉亜さんも心配してくれるし、それに田中さんも、あなたもいてくれるから。
身体が不自由なママは与羽という命を産むことは許されなかったし、母性や愛情だけではどうにもならなかったけれど、あなたのパパが望んでくれるように、せめて文章を生み出すことは諦めたくないと思ったよ。産めなかったあなたを思うこの止めどなく溢れ出る気持ちを言語化することくらい、ママがこの世界で生きる術として許されたい。書き続けていたい。生まれられなかった与羽という存在をこの世界で生かすために。あなたをグリーンゲイブルズに来る前のアンのように孤児にはしないから。でもアンと同じように想像力豊かな無垢な魂で羽ばたいてほしい。アンがリラを始めとする子どもたちを愛し続けたように、私も与羽のことを愛し続けるから。私の命を守ろうとしてくれる炉辺荘で。いつの日かあなたの魂が、産んでくれるやさしい誰かの元で生まれ変われる日が来ることを願いながら…。
与羽が命がけで命の尊さを私に教えてくれたから、簡単には自分の命を放棄できなくなったよ。妊娠前まではいつ自分の人生が終わってもいいと投げやりな気持ちで生きていたけど、簡単には人生を終わらせることができなくなったよ。この世界には与羽のように生まれられない命がたくさんあることをなるべく多くの人たちに伝えるために。生まれられなかった命をこの世界で生かし、与羽が存在した証を残すまでは死ねないと思ったの。それがどんなにつらいことだとしても。
私は孤独ではないのかもしれないけれど、障害者だから認めてもらえることは少ないから、与羽という存在を誰かに認められたいんだと思う。振り返れば「ご懐妊おめでとう」って障害のある母親の私が身ごもった与羽の命を祝福してくれたのは、最初に妊娠を確認してくれた産婦人科の先生だけだったね。他はみんな困った表情を浮かべるばかりで、おめでとうとは言ってくれなかった…。ママはもっとたくさんの人たちに私じゃなくて、与羽の命を祝福されたかったの。あなたの命と出会えたことはママにとっては幸せなことで、与羽の命はかけがえのない命だったから。私はどんなにけなされても構わないけど、あなたがこの世界に認知されないことはどうしようもなくつらかった。悲しかったし、苦しかったし、情けなくて未だに悔しい…。だから与羽をこの世界で認知してもらえるようにたくさん書くよ。私の残りの人生は執筆活動に費やすよ。もう他者の性欲を満たすためだけのコタツ記事やTL小説なんて書いてる時間はない。与羽がいなくなっても残ってしまったらしい母性をなだめるためにも、予期せぬ妊娠や中絶で後悔に苦しむ女性を慰めることができるような文学を書けるようになりたい。処女受胎なんておとぎ話みたいな実体験を交えた物語、命を孕むことの重みと中絶の過酷さを綴ることに人生を捧げると決めたよ。無情で無常なこの世に生まれられなかった与羽の居場所を作りたいから…。
せめて私が紡ぐ物語の中で生かしたい。処女であるはずの私がたしかに孕んだはずの命を…。命を孕んでいた頃、わずかに見える希望にしがみつきながら、絶望して、人生で一番どうにもならない状況に苦しんだはずなのに、それは人生で一番幸せな期間でもあった。あの子…与羽が私の中にいてくれたから…。
特別な身体だから、特別に性交なしで受胎できたのだろうか。きっともうそんな奇跡は二度と起きないから、命を孕めない私は自分の文章の中に言霊を宿すしかない。与羽を白い影のままでは終わらせたくない。希望の光のように私を導いてくれたあなたをこの世界の光にしたい。社会や他者との摩擦を知らずに生きていた、何もなかった私の人生を最もかき乱してくれた救世主のような与羽。喜びや憂い、希望と絶望、幸せと不幸せを同時に連れてきてくれたあなたの魂を、理不尽なこと、どうにもならないことが溢れているこの世界で生かすことがこれからの私の使命のすべて。
どんなに与羽を愛していても、それを伝える術もほとんどなかった。不自由な身体では泣く子をあやすことさえできない。無力な自分が惨めに思えて、ままならない身体を憎み、呪った。ただあの子を思うことしかできなかった。私はその思いを言語化することくらいしかできないのだ。
与羽がいなくなっても、消えてくれない母性による我が子のことを考えてしまうやさしい気持ちは文章にぶつけるしかなかった。目覚めてしまった母性というものは残酷なものだとも思った。それを向ける対象がいなくなっても、消えてはくれなくて、生きている限り、永遠に残るのだから…。
少し前まで紗花が呟いていた胎児殺しという戯れ言が現実のものとなり、願っていた子殺しが実現したはずなのに、本当に我が身に起きたことなのか、夢だったのではないかと未だに信じられない時もある。けれど、ふとした瞬間に泣けるから、あれは事実だったのだとその度にあの子の命を胸に刻み直す。きれいな青空や眩い光のスペクトル、瞬く星、美しい光景に出会うと必ずあの子を思い出す。そして止めどなく涙が溢れてしまう。この不完全な身体に命が宿っていた証としての雫が…。
あの子の命と人生を引き換えに、私は自分の命と人生を守ってしまった。だから与羽に恥じない生き方をしなきゃいけないのに、物書きになるなんて大きな夢を掲げただけで、前より堕落した生活を送っている気がする。自堕落した生活を変えるためにも、残りの命と人生をかけて紡ぎ続けなければならない、与羽の命の物語を。
本当は皆に誰かに田中さんに、与羽の命を認めてほしかった。世界のどこかに与羽と私が共に生きられる居場所がほしかった。そんな場所はどこにもなかったから、自分で作るしかなかった。与羽の存在を生かせる場所を。生まれられない命が当たり前のように毎日、たくさん始末されていること、可哀そうな子と憐れな母親がいることを世界に伝える術がほしかった。
与羽がひとり死んだだけでは少しも世界は変わらず、動き続けていることが悲しかった。田中さんとの秘め事からカウントすれば、あの子が私の胎内で生きられたのはほんの四十九日間だった。まるで初めから早逝することが定められていたような儚い命だった。私にとっては何より大事な存在だったのに、その命がこの世から消えても、みんな知らんふり…。そもそもあの子が存在していたことを知っている人の方が少ない。もはや誰にも見向きされないし、忘れ去られてしまった気がして、虚しい。だから私は意固地になっているのかもしれない。私以外、誰からも必要とされなかった命だからこそ、この世界でどうにか生かして、与羽を輝かせたいと…。
中絶後、生理のような出血が続いていた十日間は、涙を伴う悲しみ、虚しさ、悔しさ、寂しさに押しつぶされそうになった。今まで経験したそれらの感情とは桁外れの負の感情を抑えることはできず、死んだように何とか生きていた。
妊娠による高温状態が続いていた頃は、身体がポカポカすると同時に心もずっと温かかった。それはあの子がいてくれたおかげで、与羽を堕胎すると間もなく体温は平熱に戻り、心も冷えきってしまった。
今さらだけど心拍を見るだけじゃなくて、心音も聴きたかった。九週じゃまだ無理だったかもしれないけど。赤い血が流れていたはずのあの子の命の音を一度でいいから聴いてみたかった。できれば母子手帳もほしかった…。与羽がこの世界にいた証、与羽と私がつながっていた奇跡を残したかった。
大好きなはずのアン・ブックスを読む気力さえ起きなかった私は、普段は自分の細長い影の静止画ばかり映し出しているテレビの電源を入れ、自動的に流れ続ける映像をぼんやり見ていた。たまたま『アンという名の少女』という赤毛のアンの実写海外ドラマが再放送されていた。シーズン1を見て気に入った私は、半年後に再開するというシーズン2の再放送が待ちきれなかった。プライムビデオ等で検索したものの、残念ながら配信されていなかったため、アマゾンでシーズン3までのDVDBOXを大人買いした。特にシーズン3は妊娠、母子の死別など命を巡る内容が多く、目が離せなくなった。そしてまた与羽を思い出した。
私はこんなことをして生きていた。なぜかまだ生にしがみついていた。時々苦しくなる肺で呼吸し、身体は生きようとしていた。ふりかけご飯とか、必要最小限の栄養を摂りながら。
子宮にまだ主がいると脳が錯覚して、しばらく続いていた胸の張りがようやくおさまり、手術から一ヶ月半過ぎた頃、妊娠中は受け付けなくなっていた甘い物も食べられるようになった。「スペリオリテ」という名のチョコレートを口の中で溶かしながらふと思った。身体構造上、命を孕めない男には絶対分からない、受胎による多幸感と堕胎による絶望感を女の私は味わうことができたのだと。最近は男が生理痛を疑似体験できる装置も開発されたけど、あんなの気休めに過ぎない。どろっと出血する感覚までは分からないだろうし、そもそも同じ痛みが続くわけではなく、生理痛には波もあるし、痛みの種類は人それぞれで様々だから。そのうち陣痛を経験できる装置も作られるかもしれないけど、本物の命を孕んでいる時の痛みを100%再現できるわけがない。その痛みには本当に出産できる人にしか分からない、幸せも含まれているのだから…。スペリオリテを口腔内に含んでいるひと時、そんなことを考えながら女の特権のような優越感に浸っていた。魔法のようなチョコが溶けたら、その優越感は弱者が強者に抱く嫉妬心より劣っている感覚の気もしたけれど。
そして子宮に鈍い痛みを感じ始めた。トイレに行くと赤い糸が垂れていた。堕胎後、初めての生理だった。命を始末したというのに、リセットされた私の身体はまだ命を孕むことを諦めてはいないのだろうか…。
『処女受胎』
「秘密の隠れ家のようなイングルサイドという終の棲家で自ら引き起こした情事が、まさか己の命を危険にさらし、その結果、その身に宿した命を葬ることになるなんて、軽率で愚かな私は気づけなかった。決して命のゆりかごにはなれやしない、泥の上に咲き、死のみを包容できる蓮の華のような私…。死という生を超越した存在しか孕めない憐れな私は、涅槃に憧れ、苦行を続ける釈迦のようだった。誰もが他者のルサンチマンと自己のスペリオリテを天秤にかける現世において、仏陀になれる者なんていない。……紙の本、健常者を羨み、汚らしい泥を心の奥底に溜め込み、それをこの身体を蝕む痰と共に吐き出すことでようやく生きていた、汚らわしい私の中にも命はちゃんと宿ったし、九週三日目まではちゃんと育ってくれた。命と出会った私は人間になれなくていい、不完全な生命体のままでいいから、母親になりたいと願った。親たちの醜い欲望やエゴの元、母胎に宿る命。涅槃の境地に辿り着ける存在があるとすれば、それはこの世の汚れを知らないまま、清らかな魂となった、生まれられなかった命だけかもしれない。しかし我が子が汚れのない崇高な存在であることより、どんなに汚れても、私と同じように完全な身体でないとしても、這いつくばってでも生きていてほしかった。命を手放して以来、命を抱きたいという思いは日増しに強まった。身体が弱く生まれて以来、無意識のうちにずっと探し追い求めていたものは、あの子の命だけだったと今さら気づいた。一度も会えないまま、二度と会えなくなった、私にしか守れないはずの命を守れなかった私は、釈華という名を名乗る資格もなくなった。我が子を堕胎したあの日、心は壊れ、釈華は死んだのだ。そして私は釈迦でも仏陀でもなく、紗花に生まれ変わった。紗花としてこれから吐き出す戯れ言は、蔑まれ、笑われ、共感されることなく、踏み潰され、ポイ捨てされても構わない。釈華だった頃、我慢していた感情を曝け出し、叫びたい。この悔しい思いを、私にしか紡げない文章で。私は誰からも崇められる神に近い存在になるより、反抗心を剥き出しにしたパンクロッカーのような作家になりたい。誰かに依存しなければ生きられない障害者の私が唯一、自力でできる行為は書くことだから。己の力だけで連ねる言葉たちがたったひとり誰かの元へ、願わくば彼の元へ届くなら、書くこと以外他に何もできない自分をきっと許せる。釈華だった頃から溜まっている、吐き出しきれていない汚い吐しゃ物を磨いて、言葉にして生きていこう。……自分はこの世界からこぼれ落ちてもいいけれど、釈華に宿ったあの子の命だけは、自分以外の誰かにも認知されたかった。あの子という存在を、この世界に生まれようとしていたあの子がいたことを認めてもらうために、母親になり損ねた私は書き続けなければならない。」
私の卵子と(田中さんの)精子が織り成した奇跡の産物を忘れられない私は、命の残像のようなエコー写真を瞳に閉じ込め、与羽が生きていたあの時期に聴いていた楽曲たちだけを頼りに、黙々と何かを綴り続けていた。あの子が与えてくれた母心を胸に灯しつつ、特にAマイナーとGマイナーの曲に、ますます曲がった背中を支えてもらいながら…。
三年後…担当編集さんと一緒に出版社近くを歩いていると、父親らしき人に連れられ、補助輪自転車に乗る子が車椅子の私の横をはしゃぎながら駆け抜けて行った。与羽と一緒に遊んでくれたかもしれない、お友だちになってくれたかもしれない子…。こだまするその子の笑い声が風になびいていた。
「紗花さんの小説、オーディオブックでの発売も決定しましたよ。一ヶ月前にラジオで冒頭部分が読まれて、紹介されたじゃないですか。あれ、すごく好評で、オーディオブックにしようということになったんです。」
担当編集さんが私にうれしい報告をしてくれた。
「本当ですか?ありがとうございます。」
「紙の本の方ももちろん人気で、古本屋で高値がついてますよ。特に初版は。オークションやフリマアプリでも高騰してますね。」
「そうなんですか。うれしいです。」
もしかしたら田中さんも店に持ち込まれた私の本を査定し、棚に並べてくれているかもしれない。私に書き続けるという希望を与えてくれて、あの時、「与羽」になりきってくれた田中さんはどんな顔して私の本を手にとっているんだろう。あれ以来、古本屋には行っていないけれど、そのうち行ってみようかな。田中さんが働く私の本も並べられているかもしれない「ブックオフ 虹の谷店」へ。「買い取ってください」と自分のサイン本を抱えて…。
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