私の芸術運動161誰が為の芸術?

最近はなにかと自分が焦り気味なんじゃ無いか?先走ってないか?周りが見えてないんじゃ無いか?と思わせる事が増えた気がします。

こういう直感、なんとなく、というものは結構的を得ている場合が多いのでここら辺で改めて自分について考えてみる必要がある様に思いました。

最近の焦燥感というのは自分のこれからの未来について考えた時に不安を感じるから!というのがベターなのですが、未来の事について考えた時にそこから振り返って今の自分はちゃんと動けているのか?というところが今回の私の不安の正体です。これは誰もが抱える根源的な恐怖の一つだと思いますが、私の場合少し意味合いが変わってきます、それは何か?と言いますと、私は今が既に根無草だというところです。笑

良くあるパターンで言えば、今に特別不満はないがただ漠然と未来が不安だというのが良く聞く話です、私は今の生活すら綱渡りの様なものなのです、それは自分の招いた結果ですがある意味で他に道が無かったと言っておきます。

私は自分が何かを間違えているという事はわかっていますし、そういう風に諭される事が割とあります、しかし私の心の底では「いーや!!自分は間違っていないよ!!」と頑なに思っているのです。

この矛盾が今の自分をジリジリと追い詰めてゆきます、導火線に火のついたダイナマイトの様なもので何かが起こらない限り私は吹っ飛ぶわけです、けどそれは死を意味してるのではなくて、今の自分が死ぬという事になる。という事です。

私は自分が日頃から得るインスピレーションをもとに風景を描きます、旅先で見た灯台や、山や川や橋、海や空や知らない街、その土地で生きる人達からすればごくごく普通のありふれたたわいも無い事なのですが、私には雄弁に多くの事を語りかけてきます、そんな対話を自分の言葉として文章にもまとめてありまして、画文集として本にしたいと常々考えております、しかしそれが私の人生を安心させるものになるか?はわかりません、むしろ自分が安心するために描いたり、描いたりしているのではありません。

芸術とは?誰に向けられたものなのか?

今西洋国立美術館でも開催されている企画展もその様な意図のコンセプトを掲げていました。

美術館は誰に向けて開かれ、誰を閉ざしているのか?という問い。まだまだ万人に向けて開かれたものでは無い様な気もいたします。

美術館と自分を比較しても仕方のない事です、がしかし、私はその企画展を見て良くも悪くもこれからまた芸術のあり方が大きく変化していく様な気がいたしました。

私は時代に合わせて芸術をやれるほどの人間じゃありません、ただ自分の芸術を求めて旅をしている様なものです、しかしこの当てのない旅が私に焦燥感を与えているのでしょう。

岸を蹴って小さな船で大海原に向けて進んで行く、目的地は大海原でありどこかの島じゃないわけです、結局どこに行っても地に足つかないふわふわと漂流するだけの画家なのか?

結局自分のことしか考えられない器量の小さい芸術家な様に思えます、芸術は世界を変える力があると私は本当に思っていますけども、私は自分の心にばかり苦心しているに過ぎない様な気がしてしまいます。私は他人の思想に相容れない人間でありそれじゃ無ければ芸術家は務まらんとも思う反面、自分で自分を押し込めて小さくまとまってしまっている様な気もするのです。

だから私は今焦っているんですね。

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