汗は、わがままだ。
ぼくのいうことなんて、聞いてくれやしない。
額から、首筋から、ワキから、背中から、次々と顔をのぞかせる。
やめてくれ、よしてくれ、と注意しても無視だ。そして感情的になるほど、身振り手振りでメッセージを伝えようとするほど、一粒一粒が自己主張を強める。透明な後継者も、あとを絶たない。
どうして出てくるんだ!
汗は、こうしたぼくの言葉に耳を傾けないし、何も言わない。
ただただ肌の上で、ぷくっとふくらむ。
その姿に少しでも触れると、丸みを帯びた体形からすっきりとスリムに。
そして、重力には屈する。
ほおっておけば、小さな海。足元の湖。雨空の水たまり。
フナやカエル、アメンボは、この水の中で暮らせるだろうか。いや、クジラやカツオの方が向いているかもしれない。その付近の陸地に、ペンギンやアザラシも、きっと集まってくる。汗の生態系の中心に、ぼくは生きている。まるで神さまのように。
おとなしくしていると、汗の駄々は自然とおさまる。
ぼくの話は無視するくせに、30分ほどじっとしていれば、あんなにも主張していた無数の顔は見当たらない。
ただしこれは、液体として、の話。
今度は、白いシミとなって、皮膚や服にはりついている。ベタベタとした感覚もあるから、汗とはまだ離別していない。それに、ツンとする香りもひどい。発酵食品に似た匂い、と褒められるかもしれないけれど、白米やワインにはきっと合わない。
でもぼくは、こうした汗のわがままやしつこさを解決できる。
その方法を、鬼ごっこばかりしていた頃から、知っている。
重量の増したスポーツウェアを脱ぎ、バスルームへ。
シャワーの蛇口をひねれば、汗とのお別れ。
ただしこの行為は、ものすごく愚かなことなのかもしれない。
タイルの上に広がる海では、イルカもマグロも暮らせない。
カモメもウミネコも、ナマコも、どこにもいない。
汗の生態系は、ぼくをひとりぼっちにさせない親友だ!
💧💧💧💧💧
これからの時期は、秋冬を迎えるまで、ずっと汗とともにある。
5月はまだ、日常生活において、体をびちゃびちゃに濡らすことはない。
夏は、違う。
どこにいても、なにをしてても、水分が足らない。いつだって、アイスクリームが食べたくなる。そしてそのアイスクリームのように、体が溶けていく感覚を味わう。
それに比べて、5月の日射しは、ずいぶんとやさしい。
雪の降る街から、カビの華やぐ時期の間の休憩。
多くの人間と同じように、地球だって、わるいヤツではない。
ただしその日射しによって、汗は流れる。
ぼくが日課としているウォーキング中には、なおさら。
ジョギングと同程度のスピードで歩こうが、あたりの景色をひとつひとつ楽しめる速度だろうが、じんわりと体が濡れる。額からもたらり。ハンカチやタオルでぬぐっても、とどまることを知らない。
汗のような現象にあらがうことは不可能なのだ!
といっても、ぼくは汗を愛せない。
汗をかくことに、なにひとつメリットを感じられないし、デメリットの方が多い気がする。におい、不快感、ぬぐう動作、衣服についたシミ。日々の生活の中で、いずれもメリットと呼べるものはない。
それに、コスパもわるい。トップス、ボトムス、下着、靴下、どれも丁寧に洗濯する必要がある。場合によっては、洗濯洗剤をたくさん使わなければならない。汗のしみこんだ衣類をそのまま着続けることも、洗わずに放置することも、どう考えてもできない。
洗い続ければ当然、傷む。傷めばもちろん、買い替える。体に身に着けるものだけではなく、ハンカチやタオルも同様。
体も、しっかりと洗わなければならない。それには、シャンプーや石鹸を消費する。水道代もガス代も無視できない。時間をかけて体を洗浄する動作や、濡れた体の水分を除去することだって必要だ。さらにドライヤーの電気代もプラスされる。
汗を放置すれば、肌トラブルも避けられない。もしそうなったら、メンテナンス代が必要になってくるだろう。
このデメリットだらけで、コスパのわるい現象から、なんとか逃げ出したい。
それならば、体を動かさなければいい、ウォーキングをやめればいい、と考える。じっとしていれば多量の汗はかかない。夏場以外は、大丈夫だ。
けれども、運動しないことのデメリットは大きすぎる。
不健康だし、ストレスもたまるし、無意味にダラダラとしてしまうし、ひまをつぶせない。大病といった、もっとコスパのわるいことにつながってしまうかもしれない。
どうすれば、汗をかかずに運動できるのだろう?
それとも、この遊歩道でウォーキングする習慣をやめるべきか…
そう真剣に悩むぼくの頭上には、旬を迎えた藤の花が色気をだしている。
💧💧💧💧💧
夢はいつかきっと、叶う。
願いも、祈りも、天に届く。
ぼくの汗はもう、くさくない。
起床時からすでに違っていた。
枕元から、強い甘い香りがするんだ。
はじめは、鼻がおかしくなったのかと思った。部屋全体に漂う芳香の原因がわからない。香水のビンが倒れて割れた、なんてことはない。そもそもこの部屋に香水はない。花も、アロマも、家の中にはない。冷蔵庫の中のリンゴジュースがこぼれたって、これだけ強い匂いは充満しない。シュガー入りのヨーグルトも同様。窓を開けても、あたたかい風以外感じられないから、外部要因はない。
その香りは、枕の少し濡れた部分から発されている。
それは、ぼくの寝汗だ。
鼻を近づけてみると、やっぱりそうだ。
メロンのように、エレガント。マンゴーのような、楽園。さくらんぼのように、かわいい。そんな匂いがする。
もちろん、寝汗のフレグランスのもとになっている、頭皮や首筋も、いつもとは違う。枕元のように強くはないけれど、手でこすり、鼻を近づけてみると、かすかに甘い。きっとワキも、背中も、足のウラもそうだ。もうかがなくたってわかる。
ただ、いつものようにベタベタしている感覚は、不快だ。
シャワーで汗を流しても、大丈夫だろうか?
もうこの香料は、失われてしまうのだろうか?
という心配の必要もなかった。
ぼくの体は、シャンプーや石鹸よりも、スイート。体の水分をぬぐったタオルも、柔軟剤以上。浴室だけではなく、部屋全体がシャワーを浴びる前より、お花畑。髪の毛をかわかすドライヤーのあたたかい風だって、精油を拡散させるアロマディフューザーのようだ。
しかし、なんでこんな体になったのだろう?
フラワーパークみたいな身体構造へと変化したのだろう?
汗を厭う気持ちがあったのは確かだけれども。
といっても、このフルーティーなボディーを楽しまなければ損だ。
この脱人間の状態は、宝くじが当たったようなものだし、競馬で勝ったようなものだ。
今日は、休日。
ナチュラルな香水を自慢しに、街に出よう。
💧💧💧💧💧
駅からまっすぐにのびる商店街。
その道を闊歩すれば、誰しもがぼくの香りに魅了されると思っていた。
もうすでに、汗をかいている。ワキや背中、足のウラは、しめっている。額を手でぬぐえば、汗の玉が指につく。
体全体から、マンゴーやメロンのようなにおいは漂っていた。汗をかいたばかりなのか、今朝よりも拡散力は強い。ぼく自身も、頭がぼんやりとしてくるほどに。
しかし誰とすれ違っても、フルーティーな香りを気にしていない。
こんなにも人がいるのに。
無料で香水を楽しめるのに。
20、30分ほど商店街の中をぐるぐると歩き回っても、褒めてくれる者はいなかった。
場所がよくない、と思う。
ほら、あそこには、本物の果物を店頭に並べている青果店がある。カラフルなディスプレイは、喧騒の中でもひと際目立つ。それに香りも、なくはない。ぼくは所詮、ニセモノの果物だ。いつだって、本物のフルーツに勝てやしない。
青果店だけではなく、コロッケを揚げる精肉店や、炭と火の香りを充満させるうなぎ料理店、串焼き店など、さまざまなにおいが入り混じ、ぼくの存在なんて、ほとんどないようなものだ。すれ違う人、それぞれににおいもある。風邪や花粉症で鼻づまりしている人も、きっとたくさんいる。
場所を変えよう。
でも、どこがいいのだろう。
できるだけ人がいるところ、といえば、デパートだろうか。休日の午後だ、百貨店に集う家族連れやカップルは少なくない。その中でうろうろとしていれば、きっと誰かが褒めてくれる。
しかし、そうはいかない。一階のフロアには、コスメの香りが充満している。あの強度に、ぼくは勝てない。きっと美容部員にも無視される。また、デパ地下という商店街に似たライバルもいる。
そんなに人はいないけれども、カフェや書店もいいかもしれない。
ターゲットを少数にしぼる。
一部の人から愛されることで、大勢に興味を持たれる、というメソッド。
ああでも、あの香ばしい豆のにおいも、紙の独特な香りも、ぼくはスキだ。その邪魔をしたくない。フルーティーとはいえ、汗。おじさんの、ただの汗。
そうだ、公園にしよう。
この商店街からも近いし、人もたくさん集まっているし、初夏の風に乗る花の微香ぐらいしか、競合相手がいない。解放された場所であれば、強い香りで気分を害する者もいない。
信号をふたつ渡り、駐車場と保育園の横道を通り、階段を昇る。
坂の上にある公園は、ぼくにとって楽園だ。待ち望んでいた天国だ。
うっとりと階上を目指していると、上空には、たくさんのカラス。カァカァと鳴きながら、ぼくの歩みに合わせている。その中の一羽は、高い木の上にとまり、ぼくをじっと見つめる。
そして、指先にはアゲハチョウがとまっている。
この公園には、さまざまな生き物がいる。
緑あふれる素晴らしい場所じゃないか!
そう歓喜していると、腕にも肩にもアゲハチョウがとまり、少しだけ羽をバタバタとさせながら、ぼくの体の上で静かに休んでいる。依然として、上空には無数のカラス。
アゲハチョウだけではなく、小さなハエのような虫も、近くでくるくると飛んでいる。
鳥類と虫たちを味方につけた。
あとは、人類からの賞賛だけだ!
仲間になった生き物たちとともに、階上へと急ぐ。
ブーンという耳障りの悪い重低音は、ラストスパートにぴったりのBGM。
チクチクと痛む体全体は、興奮の証。
クラクラしているのも、きっとアドレナリンのせい。
キラキラと目に入るのは、おそらく天使の羽。
真っ赤に熟れたぼくは・・・今、最高潮!
さぁ、急ごう。
天国へ、楽園へ!
(了)
※この物語は、フィクションです
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