人生と冤罪と下剋上#001
閲覧頂きありがとうございます✨HIROKIです。
これまで刑事裁判のあれこれを書いてきましたが、
自分の人生ってちょっと他と違うというか、色々と地獄を見てきた私からすれば面白くもなんともないけれども、ある意味ドラマがある人生な気もするので人生を振り返りつつ、地獄を見てきた私だからこそ出来る今の仕事のことや、これからの人生のことをぽつぽつと書いていこうかな、と思いますm(_ _)m
では、バタバタの日常の中での更新なのでスピード感はありませんがお付き合い頂ければ幸いです。
少年時代
私は大阪北部に生を享け、なんてことのない田舎ですくすくと育った。大阪って都会と思われがちだけど、本当に場所による。私が生まれ育った町はなーーーんにもないど田舎。野生のキツネや狸、キジなんかが闊歩しているレベルの田舎。
私の家族構成は父、母、兄、そして私のなんてことのないごくごく普通の家庭。
幼少期の記憶はほとんどないけど、子どもの頃からなんか学校とか団体行動が苦手で落ち着きのない子どもだったような気がする。集団登校とか、下校とか、全校集会とか、「これやる必要あるか?」って子ども心に思っていた、そんな小学生。
確か小学4、5年生ぐらいから我が家では父の浮気が原因で両親の喧嘩が絶えないようになり、ひどい時は母が手当たり次第に食器を投げて暴れるなんてこともあったし、当然そんな姿を見ている内に家に帰りたくないという気持ちになり、私はあっという間にグレてしっかりと不良少年になっていった。
とはいえ、小5の悪さなんかたかが知れているのでせいぜい万引き、恐喝、ケンカ、ピアス、バイクぐらいのものだった。家に帰りたくないから外に出る、夜の10時に外をほっつき歩いている同級生なんていない。そうこうしている内に駅前のロータリーや地元の不良がたむろするゲームセンターに出入りするようになった。一人でぷらぷらしていると地元の先輩というか不良達がみんな可愛がってくれて、家庭に居場所を見い出せなかった私は、私と同じように家庭に居場所がなかったり、自分よりもっともっと過酷な環境下で懸命に生きている先輩達といられるのが無性に嬉しくて、毎日が新鮮で楽しくて仕方なかった。やがて両親は離婚し、学校に行っても夜中にうろうろしているから昼間は眠たいし、学校もサボりがちになり、中学校に進学したがものの3ヶ月で不登校児の完成となった。たまーに学校に行っても金髪、ピアス、バイク登校なんて認められる訳もなく、行っては校門で喧嘩して追い返されての繰り返しだった。
そんなこんなで遊び呆けて真面目に不良少年をしているうちに、地元警察の少年課に顔を覚えられて当時は少年法が改正される前だったので14歳からしか少年院や児童自立支援施設(昔の名称は教護院)に入れることは原則として出来なかったので、ことあるごとに少年課の刑事から「14歳になったら絶対にパクったるからな」と宣言されていた。
して、ついにその時がきた。
中2から中3になるあたり、私は14歳になった。誕生日を迎えて1ヶ月も経たない内に私は学校内でトラブルを起こし、学校の教員相手を殴り飛ばし暴れに暴れた。私は興奮状態だったので近寄ってくる人間全て敵だと思っていたため、その場に現れたガタイの良いおっさん達の正体なんてまるで気にも留めず、つっかかっていったところ、気づいたら刺股で抑えつけられ手には手錠がかかっていた。
どうやら学校側が110番通報したらしく、私は大勢の野次馬生徒に見守られながら覆面パトカーに乗せられ地元警察署へと連行された。
これが人生初の逮捕。14歳の時の話。たいてい初犯の逮捕はせいぜい鑑別所送りになって帰って来るのが相場だったので、短くて約2週間、長くても1ヶ月でシャバに戻れるだろうとタカをくくっていた。
14歳なんてどれだけいきがっていても所詮は子ども。鑑別所での生活は毎日不安と恐怖でいっぱいだった。ご飯もまずい、看守はこわい、布団はくさい、運動もろくにできない、風呂は週3、訳の分からない薬物依存症の教育ビデオを見ないといけない、控えめに言って気が狂いそうだった。そんな情けない私のことを懸命に支えてくれたのが母だった。鑑別所は同じ大阪とはいえ地元からは離れているにもかかわらず、仕事を休んで何回も鑑別所まで足を運んでくれた。面会の時に小さい紙パックのジュースを差し入れられるのだが、その時に飲んだリプトンのミルクティーとマミーの味はきっと一生忘れない。
なんやかんやで体感速度は遅くとも時間はしっかりと経過するもので、ついに少年審判の日が来た。
「やっとこの生活も終わるんかあ」と思いながら
裁判官の話をぼんやりと聞いていたら、
「あなたは、家に帰ることができません」
はい?理解ができない。一発で施設送りなんてあり得るのか?思わず聞き返したが、裁判官は「あなたには児童自立支援施設に入ってもらいます」という冷たい言葉が返ってくるだけだった。あれよあれよという間に大阪府内の森の中にある施設に入ることになり、金髪で長髪だった髪も丸坊主にされ、その時に「これ、(髪の毛)持って帰れませんか?」とか訳の分からないお願いをした事を今でもよく覚えている。
この施設は全寮制で、全員が集団生活を送る。寮長と呼ばれる男性とその奥さんが寮母と呼ばれその2人を親として同じ屋根の下で退院まで生活を送る。だいたい一つの寮には8人〜12人前後の児童がいて、私のいた寮も10人前後だったような気がする。
ここに入所してしばらくは観察寮というところで今後施設で暮らしてゆくイロハを叩きこまれる。お箸の持ち方からほうきの使い方、そして共同生活をしながら様々なことを学んでゆく。学力に応じてクラスも分かれるので、生活をしながら学力テスト等も行った。この時は既に学年的には中3になっていたが学力テストの時に数学の問題で分数が出た時はなぜ数字が上と下にあるのかが理解不能だった。そんな調子だったので私はいけても一番下の掃き溜めクラスだろうな、と思っていたが何を血迷ったか私は一番知能が高いクラスに配属されることになった。これは後で知った話だが入所に際しての面接で学力は皆無(失礼)だが、知能指数はずば抜けていたから一番上のクラスになったということだった。私はすぐ反発するくせに認められたり期待されるとすぐに頑張ってしまうタイプのちょろい男なので、観察寮を出て一般寮に移ってからはそれはそれはもう勉強しまくった。元々勉強は嫌いじゃないし、学校という空間と偽善者面した教師という名の大人が嫌いなだけだったので、必死になって勉強している内にどんどん学力が向上していくことに快感を覚え、高校進学なんて考えたこともなかったがここまで来たら高校入学までいってやっか、という気持ちとともに私のことをゴミとしか思っていなかった中学の教師達を見返してやりたくて、私は1年間で約5年分の勉強をして、結果としては見事高校進学を果たした。
結局この施設には約1年間お世話になった。寮長さんも寮母さんも可愛がってくれたし、周りの同胞達ともそれなりに上手くやれていた。さすが大自然の中の施設なだけあって、お風呂も自分達で裏山に行って大木を切り倒して細かく薪にして、その薪を焚いて風呂を沸かすという平成後期では考えられない原始的スタイル。他にも畑をイチから耕したり、草刈りをしたり、地元で不良をやっていたら絶対にできない経験をたくさんさせてもらった。ちなみに、私は逮捕当初身長が150ちょっとと小柄だったのだが施設の中で美味しいご飯を山盛り食べて自然のなかでのびのびと育ったお陰で、1年で170センチを超えた。出てきた時は周囲に目を疑われたものだ。
あれやこれやとしている内に施設での生活も終え、無事に出所することができた。ここでの約1年間で人並み外れた根性を身につけることが出来たのは一生の財産だと思う。余談だが、卒業式は施設内で執り行われるけれども、卒業は地元の中学ということになっている。その際、学校の教師が私の写真を卒業アルバムに載せても良いかと訊いてきたので、「ろくでもない中学にいたことを自分の歴史から消したいので一切載せないで下さい」とお願いしたので、私の中学生活で残っている写真は一枚もない。
そして高校へ入学してわずか一ヶ月ほどで私は担任と喧嘩になり、当たりどころが悪く担任の鼻の骨を折ってしまった。施設を退院して約2ヶ月でこれはまずい。学校側は私に、このまま大人しく自主退学するか、被害届を出してもっかい施設に入るかどっちか選びなさい、というので私はいうまでもなくそそくさと退学を選んだ。やはりどうやら私は学校という場所と教師という存在に拒否反応を示すらしい。
そんな訳で1年間の猛勉強も自業自得とはいえ虚しく、私は少しの間佐川急便でアルバイトしたのちに建築塗装の仕事に就くことになった。そこの会社は、というか当時無資格未経験で車の免許もないような小僧に支払われる日当なんて高くて8000円、私が勤めていた塗装店は日当5000円という悪い意味で破格の値段だった。朝の5時集合で夜は9時10時なんてのはザラ、時給に換算すると300円代ぐらいの薄給重労働。ただ塗装という仕事は手先が微妙に器用だったこともありめきめきと上達していってやりがいもあったし楽しかったから、親方や先輩方に日々怒られどつかれながらも頑張っていた。
なんやかんやで塗装の仕事を続けて5年目に差し掛かろうというときに転機は訪れた。色んな事情がありその塗装店を辞めることになった。まぁ事情が事情だし仕方ないが、元々20歳で独立する目標をたてて頑張っていたのであと1年、、、あと約1年どこかの店で勉強させてもらうか、それとも予定より早いが独立してしまうか、、🤔悩んだ末、私は独立を選んだ。職人として技術もまだまだ、人間としても未成熟、経営者としてのノウハウもない、まだ当時はSNSなどが発達していなかったから今みたいに動画を見て独学することも難しい。そんな、海にイカダで航海に出るような無謀な挑戦だったが、茶髪ロン毛、ニッカポッカ、派手なバイクをトレードマークに、ハローワークの求人やコンビニなんかに置いてある無料の求人誌に掲載されている会社に片っ端から電話をかけまくって「お金はいらないから1日だけでも使って下さい!!」ってな感じで営業にすらなっていない営業を続けていると、案外そういう奴はいないらしく、営業先の会社さんも面白がってくれて「じゃあ一度来てみたら?」ということで思っていたより簡単にアポが取れた。今にして思えばあの年齢であの無鉄砲さとあの見てくれだから相手方もなんやかんやと可愛がってくれていたのだろう。
建築関係の親方なんてたいていは昔は喧嘩でならしたヤンチャくれなのでそういうバカは大好物。かくいう私だってそうだ。これが30歳になって独立したとしたらこんなやり方は確実に通用しなかっただろう。
終わり方がなんとも中途半端だがこれが私の成年になるまでのストーリー。
次回は成人後初めての逮捕と刑務所について書きます。
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