人生と冤罪と下剋上#002
閲覧頂きありがとうございます✨HIROKIです。
今回は成人してからの4年間ぐらいのこと。
前記事で書いたように私は19歳の時に独立して、自分の会社、というか店を持った。とにかくがむしゃらに毎日毎日働き通しだった。なおかつ、朝から現場に出て、終わってから仮眠を取り、夜勤に出て、そのあと飲みに行くという今なら絶対に出来ないような無茶な生活を送っていたが、毎日毎日楽しくて仕方がなかった。取引先の先輩方にも大変可愛がって頂いて、業績的にもそれなりに安定してきたので、それまでは一人で出来る仕事ばかりしていたが、従業員を雇ってもっと大きな仕事を請けようと考えた。私の地元にはいい年こいてプラプラしている人間も多かったのでそういう人間を誘って、最終的には私を含め5人体制で会社を回していた。私以外の4人はほぼ未経験だったので最初は苦労もしたし赤字もひどかったが、そこはさすが地元のヤンキー達。なまじ根性はあるので体力はないが覚えは早かった。次第にこれまではいわゆるハウスメーカーからの一軒家の案件をこなしていたが、比較的大きなマンション工事の受注が来たので、不安も大きかったが私は請けることにした。
一軒家の工事は経験や技術を積むのにはちょうどいい。なぜなら、一軒一軒形も違えば塗料の種類や工法も変えなければならない。発想の柔軟性と高度な技術が求められる。スキルを磨くにはもってこいだが、いかんせん単価が低いのだ。そのくせ、一軒一軒やり方や形も違うから流れ作業が生まれにくい。
しかし、マンション等の大型工事なら一度流れを作ってしまえばあとはそれの繰り返しだから、変な話技術や柔軟性はあんまりいらない。そして何より従業員を抱えた今の状況からしてみんなの生活を預かることになるわけだから安定した収入が必要。
そしてある年の年始頃、新年会というか、これからみんなでこの大型工事を成功させよう!という趣旨の飲み会をし、その数日後に問題発生。
従業員のうち一人が別の従業員から金を借りて返していないという事実が判明。まずもってなぜ社長である私のところへ借りにこないのか、そして年明けからみんなで規模の大きな工事をやってやろうと約束した矢先になぜ??当時は、というか今もだがそいつの心境がまるで理解出来ない。何より昔は今では考えられないほど短気だった。それこそ今となっては理解に苦しむが、とりあえずそいつに電話をして、何回掛けても出ないので私はまずそいつの妹を攫った。で、妹の解放と引きかえに当人を呼び出してひとまず話し合い。話せば話すほどイライラが募ってきて、気づけば相手の顔面から血が吹き出していた。一度スイッチが入ってしまえばブレーキがきかないタイプだった私はその後も相手に暴行を加え続けたのち、車で連れ去って近くの山に相手を捨てた。
それから2ヶ月ほどした早朝のこと、「ドンドンドンドン!!ピンポンピンポンピンポン!!!」と、今どきヤミ金でもそんなことしねぇだろ😅っていう勢いで刑事がおはよう逮捕に訪れた。この暴行事件については全て事実だし争う気も弁解する気も全くなかったし、遅かれ早かれパクられるだろうなってことは分かっていたので「あぁついにきたのね」ぐらいの感覚でしかなかった。
そのあとも色々あるにはあったが、そのへんは割愛するとして、私は人生初の刑務所、今はなき奈良少年刑務所へと入所した。大戦時には陸軍の駐屯地としても使われたという歴史を持つこの100年超のお城のような建物は、外観こそ美しいが中身はやはり年相応。夏場は暑いし冬場は水道が凍って翌朝水が出なくなるほど寒い。ってか痛い。そんな刑務所で私が最初に配属された工場は炊場(すいじょう)という受刑者達の食事を作る工場だった。刑務作業にはいくつかランクというか種類があって、刑務所の運営に関わる作業、たとえば炊場や営繕(所内の設備工事)、図書などの工事は経理工場と呼ばれる。その他の作業は生産工場と呼ばれる。生産工場にも色々種類があって、金属、木工、袋折りなどの内職的な仕事をする工場がある。内職的な工場は立ち仕事が出来ない高齢者や知的又は身体障害を持つ受刑者が配属されることが多い。こういうところはいわゆる【モタ工】と呼ばれていて、語源は『モタモタしている人間でも務まる工場』的なところが由来だとされている。モタ工のヒエラルキーは刑務所の中では最下層だ。そして、立ち仕事はA作業、座り仕事はB作業、居室内作業はC作業、という風な区別がされていて、それぞれ主食(ごはん)の量が異なる。
私は外でも中でもそこまで食に執着がない人間なので分からないが、ご飯を多く食べたいからという理由でA作業を希望する人間はめっちゃ多い。
ちなみに、刑務作業の給料というか、一応労働の対価として「作業報奨金」というものが支払われる。
これは給料という名目ではなくて、出所後の更生に向けて何かの足しにしてね、という趣旨で刑務所から支給される金銭だが、刑務所に入所したばかりの頃は一番ランクが下なので時給は約6円ぐらい。
かなり話が脱線してしまったが、私は入所時の面接で希望の工場を聞かれた時に、「どこでもいいがとにかく一番キツイとこに入れてくれ」と言ったら炊場に配属されることになった。少年刑務所だから私も含めてまだまだみんなやんちゃで、とにかく毎日もめ事は起きるし、上下関係の厳しさも半端ではなかった。監視カメラの死角になっているところで殴る蹴るは当たり前、担当刑務官もグルになって見て見ぬふりって感じの悲惨な環境だった。私と同期で入った2人とはよく話したし、これから後輩が入ってきたら絶対こんなことはやめような、と話していたが、実際に後輩が配属されてきて教える立場になったとき、優しく教えていたら先輩から「なんでそんな生ぬるい教え方しとるんじゃ」と言われ、優しくするとコテンパンにやられる。厳しくすると「それでええんじゃ」と褒められる。でも、後輩は傷つくし辞めていく。これって自分が今回パクられたことと構図は一緒じゃん、、となんだかやるせない気持ちになっていたころ、私が厳しく注意したことを理由に辞めてしまった後輩が刑務官に申告して、私は取り調べを受けることになった。刑務所の中には刑務所の法律的なものがあって、正式名称は【受刑者遵守事項】と呼ばれるものだ。これに違反すると調査となり、取り調べを受け、懲罰審査会という社会でいうところの裁判が開かれて、受ける罰が決まる。罰にも色々種類があるが、最も選択されることが多いのが【閉居罰】といわれるもので、私物を全部取り上げられて、朝食後〜夕食までの約8時間を正座や安座で姿勢を崩さず扉に向かって座り続けるというなんとも前近代的な拷問である。【なにもしない】ということは一見簡単なことのように思えるが、3日もすれば頭がおかしくなってくる。逆に、10日を超えたあたりから無双状態というか、何も感じなくなってくる。この状態をよく懲役囚は【悟りを開いた】と言ったりもする。
まぁなんやかんやで私は10日ほどの懲罰を済ませ、
次の工場へ。入所してすぐに経理工場、いわゆるエリート工場に配属されることはさほど難しくはないが、一般工場に落ちると再び経理工場に戻るのはかなり難しい。私はもちろん一般工場へ飛ばされた。
行く先々で懲役囚や刑務官とトラブルを起こし、何回も懲罰を受け、懲役囚としてゴミクズのような生活を送っていた。このままじゃ満期だろうなぁ、と思いつつも努力する、頑張るという発想がまるで浮かんでこなかった。誰からも期待されない、自分で自分のことさえ信じていない、うまく言葉に出来ないけど、なんか全てを諦めていた。
そんな時。懲罰中の私のもとへ一人の刑務官がやってきた。奈良少年刑務所では指折りの不良達が集まるサムライ工場と呼ばれる金属加工の工場担当刑務官だった。N刑務官は私に、「入所してからえらい暴れてるらしいやんか。そんな勢いある奴がこんなとこで座ってたら(懲罰のこと)もったいないで。お前の噂はずっと聞いてたから、もっかい頑張りたいと思うんやったら俺についてこい。もっとも、俺が幹部に打診しても引っぱれるか分からんけどな、それも縁や。とにかくあと数日やろ?大人しく座っとけ。」と言い残して去って行った。
この時のN刑務官の厳しくも温かい言葉や表情が私は今も忘れることができない。控えめに言って飛び上がるぐらい嬉しかった。誰からも必要も期待も信頼もされない、自分自身も自分の可能性に蓋をしている。そんな時に差し込んだ一筋のひかり。私はいつぶりか分からないぐらいやる気に満ちていた。
そして罰が明け、無事にサムライ工場へ。サムライ工場は工程によって班が3つに分かれており、私は仕上げを担当する班に配属されることになった。
そこでまた稀有な出会いをすることになる。
その班の班長の名前はとある車の名前。顔立ちも日本人離れしている人だったが、この顔、、、どこかで似たようなのを見た気が、、、🤔私が知っている同級生も顔立ちが日本人離れしていて、下の名前は車の名前だ、、、🤔「もしかして弟さんいます?◯◯◯っていうんですけど」と聞くと、班長は
えっ😳😳!◯◯◯のこと知ってんの!それ弟!!
こんな偶然あるんだなぁ、なんて思いつつ、一気に親近感が湧いてあっという間に班長と仲良くなった。が、それはそれで入ったばかりの新参者が工場の幹部と仲良くしていると面白くないのか、一言で言えばすっごく嫉妬される。でも、私はN刑務官と班長の期待に応えたい。だから、嫉妬している奴らが黙らざるを得ないようなほど作業に打ち込んで、誰よりも早く全ての作業を習得し、技術的にもトップクラスになったところで僕は誰かに何を言われることもなくなった。異例の早さで私は班長に昇格し、気づけば私は誰もが認めるエリート模範囚になっていた。
刑務所では、半年に一度、受刑者の処遇を見直す制度があって、1〜5類という風に分けられ、それが受刑者のヒエラルキーとなる。受刑者はみな胸にバッヂを付けているが、類によって色は異なるので、パッと見て「あ、こいつはダメな奴なのかな」「この人は努力を怠らないエリートなんだな」というのがだいたい分かる。そんな私は懲罰を繰り返していたので万年5類。普通に生活していれば3類にはなれるが、2類、1類は並大抵の努力ではなれない。ましてや、飛び級なんてものは年に1回あるかどうかのもはや珍事である。私はバッヂ云々には全く興味がなかったので4類でもなんでもいいけどなぁ、と思っていたが、進類の時に渡されたバッヂはまさかの2類だった。後日談として、ヒロキはあんなに努力してるんやから1類にするべきや。あいつが1類じゃなかったら他の1類の立場ないやんか、と周囲の人間はN刑務官に申し出ていてくれてたらしく、N刑務官的にも1類に昇格させることに異論はないが、問題は処遇部のトップがどう判断するかで、私のことを直接見たこともないし書類上(懲罰ばかり受けていたので経歴は真っ黒)でしか私のことを知らないので、1類には出来ないが、2類なら、ということでこの結果に至ったらしい。だけど私にとっては2類なんて一生手に届かないものだと思っていたし、刑務官の中でも5類から2類に飛び級で進類した私のことはたちまち噂になった。
2類になったことがきっかけではないが、私の中で色んな変化が生まれ初めていた。自分をコントロールすること、自分をコントロール出来ない人間に他人をコントロールすることなど出来ない、人に好かれたければまず自分がその人を好きになれ、何かひとつ簡単なことでいいから毎日続ける、一日の終わりに一日を振り返り、そして明日はもっと上をいく、
成り上がりたければ低レベルな人間を周りに置くな、他にもたくさんあるけれど、学校では教えてくれない大切なことを私はたくさん学ばせてもらった。そんな時、衝撃的なニュースが報じられた。
【来年で奈良少年刑務所はなくなります】
端的に言えば、建物が古すぎて耐震基準を満たしていない現状にあって基準を満たす耐震工事をするためには巨額の費用が必要、しかし刑務所は官営なのでそんな額税金ではとても賄えない、だから民間業者に刑務所(建物)を売って受刑者達は全国各地の別の刑務所に移送し、処遇する。という話だった。
まぁ確かにこんなボロボロの建物が震災に見舞われたら受刑者も刑務官も全員死ぬよね、というのは分かるが、せっかく築き上げた立場やチームがバラバラになるという現実が受け入れられなかった。
とはいえ、国が決めたことには従うほかないので
移送の日がくるまで皆で一日を噛み締めながら日々を過ごしていた。月日が経つにつれて一人、また一人と移送されていくなか、私を含む責任者達の移送はかなり遅いほうだったが、ついにサムライ工場は閉鎖された。最後の日、残ったメンバーとN刑務官で、本当は作業をしなきゃいけないのにしみじみとからっぽになった工場の中を見ながら思い出を語ったあの日のことはきっと忘れない。
そしてついに私も移送が決まった。
行き先は愛媛県の松山刑務所だ。こりゃまた辺鄙なところに、、🤷出所したら帰ってくるの大変だなぁとか思いながら迎えた移送の日。同時に松山刑務所に行く人が2人いて、3人で数珠つなぎにされながら新幹線と特急列車を乗り継いではるばる愛媛県まで行くことになった。さすがに受刑者の格好はしていないが、大の大人が3人数珠つなぎにされて、手には手錠、全員人相の悪い丸坊主、めちゃくちゃ目立つし、まさかそんな奴らが駅の構内を歩いているとは思わない一般のおばちゃんがつながれている紐にひっかかって私達の手錠を見た時の【ひぇっ?!?!😳】という顔はいまでも覚えているし、新幹線のなかで、向かい合う形のシートに座ったのだが、刑務官2名、受刑者3名、一般人1名という意味不明な席割りで、私達が新幹線に乗り込んだ時はその一般人がまさにこれから駅弁を食べようかというルンルンな様子だったのに、私達の手錠を見た瞬間に一気に青ざめてご飯も喉を通らなくなったらしく、駅弁をそっと閉じて懸命に寝たふりをしていた。笑
さすがにこれはかわいそうやなぁ😂と思いつつ、相手方にとっては笑えない話だろうが私にとっては今でもくすりとなる思い出のひとつ。刑務官もツボに入ったのかずっとぷるぷるしていた。
しかも、よりによって愛媛県までの特急列車が便の都合かなんなのかまさかのアンパンマン列車だった。こんなメルヘンな車内に受刑者、、さすがに夢壊してしまうだろ😂と思いながら肩身の狭い思いで電車に揺られていたこと。覚えている。
ちなみにこのときも刑務官はぷるぷるしていた。
して、松山刑務所へ。
この時はもう残りの刑期が1年ぐらいだったのでどこの工場でも良かったし、粛々と残りの刑期を務めあげようという気でいた。しかし、配属されたモタ工では壮絶ないじめがあった。いわゆる知的障害がある人間をいじめたり、派閥的なものがあって、どちらか一方と仲良くすればどちらか一方と揉めるって感じの泣けるぐらい低レベルな環境だったのだ。
私も程なくして「あいつのこと無視しろ」とかなんとかいじめに加担するように言われたが、「ごめんな〜そういうの興味ないねん勝手にやってて〜😉」
と返したら一瞬で嫌われた。笑 まぁ成人刑務所のいじめとかは特に陰湿で、今どき小学生低学年でもしないことを本気でやるもんだから始末が悪い。
そういう人間もいるんだな〜と思いながら過ごしていたある日、私は突然取り調べの対象になった。
容疑は「受刑者間で手紙と切手の授受をした」ということだったが、そんなことはもちろんやっていない。くだんの手紙(メモ)を見せてもらったが明らかに私とは違う筆跡。でも取り調べ刑務官は私がやったと信じて疑わない。どうしても懲罰にもっていきたいのだろう。要するにハメられたのだ。
私は入所してから書き続けている日記を提示して、
明らかに私の筆跡ではないことを伝えて、かつ、切手の枚数も全て記録しているのでそれも併せて疎明資料として出し、結果として不処分となった。
そして次は木工工場へと配属されることになる。
ここの年齢層は若く、ほぼ20代。成人刑務所としては珍しい工場だった。配属された班の班長と意気投合し、毎日全力で作業と向き合った。【なんでそんなに頑張るの?】これはよく聞かれるが、私には分からない。上を目指して、とか可愛がられる為に、とかそういう感情は持ち合わせていないので、ただやりたいことをやっているだけ、というのが答えだ。作業が楽しいからやる、自分がしたいことを一生懸命やっていたら周りの評価もついてきた、立場も上がった、ラッキー🤤という思考回路の単細胞生物なので、難しいことはよく分からない。しんどいことをしんどいと思えない鈍感力も時には必要。
毎日毎日作業に明け暮れて、班長と切磋琢磨の日々を送り飛ぶように月日は過ぎていった。
そして、私は約半年間の仮釈放をもらって松山刑務所を出所した。仮釈放なんて夢のまた夢だと思っていたし、ましてや半年も早く出られるとは思ってもみなかった。私を拾ってくれた奈良少年刑務所のN刑務官、サムライ工場の同囚達、松山刑務所木工工場の刑務官や班長、そして、私の無事を祈り、出所を待ち続けてくれた母や友人達。色んな人に支えられて私は無事にシャバに舞い戻ることができた。
出所の日に母と食事に行ってささやかな出所祝いをしてもらった時、私も母も酒はよく飲むので、3年間の隙間を埋めるように色んな話をしながら酒を飲んでいたら母が酔い潰れて、危うく出所日が母の命日になりかけたのもいい思い出だ。
約3年間の拘禁生活で学んだことは数え切れないほどあるが、今まで建築塗装の世界で生きてきて、私は塗装職人としては一流なのかもしれなかったが、人間としてはあまりにも未熟で、人間を知らなさ過ぎた。とっても当たり前なことだけど、人は色んな境遇を経て今がある。悲惨な境遇だったかもしれない、逆に、恵まれすぎていたが故に起こした犯罪だったのかもしれない、十人百色の人間がいる刑務所という場所で過ごして私は目からウロコが落ち続ける毎日で、いかに自分が狭い世界で威張って生きてきたのかを痛感し、心底恥ずかしかった。
確かに刑務所に入るということは人生において大きなマイナスであることは間違いない。だけど、人を傷つけたことは一生許されないことだが、刑務所生活は私にとっては必要で、有意義な時間だったし、そう思わせてくれた周りの人達には感謝してもしきれない。
そんな、私の4年間。
ちなみに、刑務所内で仲良くなると必ずといっていいほど「出所したら会おう」「連絡先を教えてくれ」と言われるが、私は誰一人として教えたことがない。どこまでいっても私を含めならず者。中では真面目で素敵な人でも、一線を超えるような人間なのは間違いないので、こんな所での縁なんて忘れた方がいい。本当に縁があるのなら、この狭い日本だ。必ずどこかで会うことになる。その時は是非酒でも飲みたいな、と思いながら僕は生きている。
次回 バーテンダーを目指したわけ
を書いていきたいと思います😊
興味がある方は読んで下されば幸いです。
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