サッカー人生の始まり
1992年10月5日、
大阪府大阪市住吉区の病院で生まれた。
生まれてから小学生になるまでの自分を一言で表すと、「病弱」この言葉になるだろう。
生まれて直ぐに肺炎になり、気管が弱く、
季節の変わり目と冬は、肺炎から直ぐに気管支炎になったり、それが悪化し熱性痙攣を起こす事も何度もあった。
その事が原因で光過敏症発作になり、
幼い頃から中学生まで2.3ヶ月に1度脳波の検査を行なっていた。
それに加えて喘息発作も持ち合わせていた為、
4歳まではほとんど入院していた。
そんな幼少期だった。
〜 サッカーとの出会い 〜
自分がサッカーと出会った1番の要因は、
母の友達が地元の少年団のチームのコーチだった事だ。
母は「気管が強くなる、喘息も治る。」と聞き、
病弱ではあったが、3歳の時にサッカーに連れて行ってくれた。
幼少期の頃の自分は、自分が病弱である事も忘れ、
無邪気に一生懸命ボールを追いかけていたという。
無事に初めての練習が終わり、
母は一安心したらしい。
ただその夜に問題が起きる。
喘息発作を起こし、入院したのだ。
自分でも思う。
なんて鮮烈なサッカー人生デビューだと。笑
その後、家族は病室に集まり、心配していた。
目を覚まし、容態が落ち着いた頃に自分はこう言ったらしい。
「サッカー楽しかった!また行きたい!」
自分でも何故だかわからない。
あの時何を思い、喘息発作を起こして、入院するほど苦しい思いをしたのに、またサッカーをしたいと言ったのかを…
〜 サッカー人生の始まり 〜
「どうしてもまたサッカーがしたい!!」
何度も何度も言う自分に、両親はかなり心配しながらも、そんなにサッカーをするのが楽しかったならと、了承してくれた。
中には、1回やっただけで倒れるサッカーを、
反対してやらせてくれない親もいるだろう。
ただ振り返ると、自分の人生において、
両親は常に自分の意思を尊重してくれた。
好きな事をやらせてくれた。
その両親の方針こそが、例え失敗したとしても、
全てを自分の意思で決めたおかげで、
苦い経験でも自分の糧となり、
今の自分の幸せな人生に繋がっている。
心から両親に感謝している。
そうしてサッカーデビューから半年後、、、
本格的な奥田裕貴のサッカー人生が始まる。
喘息が出て苦しい時も多々あった…
喘息の吸飲をするのがとても嫌だった事も鮮明に覚えている…
ただ何より覚えているのは、、、
「サッカーが楽しいと心から思った事だ。」
あの時、サッカーの何に引き込まれ、
魅力を感じたのかはわからない。
ただいつのまにかサッカーボールを、
夢中で追いかけていた。
そして月日は流れ、少しづつ身体も強くなり、、、
5歳になると、熱性痙攣も喘息も完治していた。
そうして病気を克服した奥田少年は、
小学生へと入学するのであった。
(写真右)
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