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否定形では伝わらない

という否定形のタイトルではなにも伝わらないと思うので、
がんばって説明したいと思います。

ようするに、
「俺はサッカーはしない」と言われても
その人がなんのスポーツやるかはわからないし、

「J-POPは聞かない」って言う人が
どんな音楽聴くのかはわからない。

否定形の主張は実体がない、みたいな話。

「否定形の主張は実体がない」という主張も否定形だから
もうわけわからないけど、続けます。

●●反対、アンチ●●、●●をさせない、●●をしない、
●●は禁止、●●はやめなさい、さよなら、●●。

否定形のメッセージは扱いやすい。
既にかたちがはっきりしたものに対して、
NOTをつければ簡単に成立するから
だ。

ぼーっとしてるとSNSで
愚痴や不満、文句、怒りを投稿したくなっちゃうのも、
デモに参加したくなるのも、
それが新たな提案より1000倍くらい簡単だからってのもあるかも。

あとはたとえば、
「サッカーが好きな人へ」というメッセージよりも
「サッカーが嫌いな人へ」というメッセージの方が
たぶん「ん?」とひっかかる人が多い。

人は肯定する理由よりも否定する理由の方が気になる。
なにかを好きな理由よりもなにかを嫌いな理由の方が説明しやすい。

否定は楽なのだ。

たとえばなにかアイデアや提案を受けたときに、
「それいいじゃん!やろう!」
と肯定して見方するのは勇気がいる。責任も伴う。
それがうまくいったら「さすが先見の明が」とか言われるけど、
うまくいかなかったら「あーあ、言わんこっちゃない」と言われてしまう。

逆にアイデアや提案に「いかがなものか」と言うのは、ものすごく簡単だ。
それがうまくいったら「ほんとはいいと思ってたよ」って言えるし、
うまくいかなかったら「ほらな、言っただろ?」とマウンティングできる。

昔っから不思議だった。
誰かがやろうとしているなにかを止めることに
エネルギーを消費する人のことを。

小さい頃は危ないことは親にいろいろ止められたけど、
それは命を守るためで、当然だ。
まぁそれは大人になったからわかるだけであって、
止められた当時はいちいち「どうして止めるんだよおおおお」と思ってた。

大人になってからは違う。
「やめといたら?」と言われるのも、他のなにかに言う人も、
マジで意味がわからない。

こう考えるとまた、
「人に「やめといたら?」とか言うのやめといたら?」
と言いたくなる大矛盾
に陥るのだが、ひとまず置いときます。

なにかを止めたり否定することにエネルギーを使ってる人は、
まさにバットマンのジョーカーで、
自分の存在が無意識にそのアンチ対象に依存または規定される
(犯罪者をこらしめるバットマンが活動してからあらわれた犯罪者ジョーカーは「お前がいるから俺がいるんだ」的なこと言ってましたね)

●●反対活動に全力を注いでる人は、●●がなくなったらどうするんだろう。
ほっとするのか、また他の☓☓に反対していくのか。

NOTという負のエネルギーをもてあましながら、
また別のターゲットを探すのか。

もちろんイジメや犯罪は撲滅を諦めてはいけない。
でもその●●に反対、NOT●●ではなにも変えられないよな、とは思う。
あ、また否定形を使ってしまった。ややこい。

昭和のエグい体育会系の部活動は、
グレるのを防ぐために始まった
という話をネットで見た。
ほんとかどうかは知らないけど、本質的だなと思う。

NOTグレるではなく、DO部活だからだ。

「グレるな」と言われたところで、
じゃあ何して生きればいいんだよ、である。
そこに「部活やれ」で、
DO部活という手段でNOTグレるが達成される

●●するな、と言われると●●以外すべてが対象となりふわふわするけど、○○しろと言われると、○○にフォーカスされるから、やるにしろやらないにしろいろいろ明確になる。そこがいい。

「グレるな」はわからないけど、「部活やれ」は、わかる。

イジメをやめろ、クスリをやめろ、戦争をやめろ…
いろんなNOT○○はあるけど、DO○○に変換して訴えないと、
そのメッセージはから回るだけ
な気がする。

そもそも人間の脳は、
NOT●●をちゃんと認識できているのかすら個人的には疑問だ。

否定形には実体がないからだ。

実体がないものは、実は表現できない。

これまた映画の話につながるのだが、
映画では「NOT●●」ということを直接表現することはできない
映画や映像は具体を示し紡ぐことでなにかを浮き彫りにする表現だからだ。

例1)
"彼女は彼のことを愛してない"ということを
映画は直接表現できない。
"彼女が彼の誘いを断る"という具体、DO○○に変化する必要がある。

例2)
"彼はサッカーをしない"ということを表現するには、
逆に"サッカーをする人"がまわりに必要だ。

「僕はサッカーをしない」とナレーションやセリフで言わせる以外は、
"サッカーの誘いを断る"か、
"みんながサッカーしに行くなか、ひとり違う方向へ行く"とか
そういうDO○○に変換する必要がある。
(先日は"パスをずっとまわす"というDO○○で、"点を取りに行かない"というNOT●●が伝わったわけだ)

例3)
"あの牛は、狼がいる丘には近づかない"を表現するのは大変だ。
該当する描写は"狼がいる丘に近づく"以外のすべてになってしまう。
てっとり早く表現するには、
"狼のいる丘に近づけられようとすると、抵抗する"
というDO○○にしなければならない。

例4)
"戦争に反対"は、映画表現だろうが現実だろうが、
"戦争反対デモに参加する"というDO○○に変換されて初めて表現される。

このように、否定形そのものには実体がない
実体はないが、存在はする。

なにかすでにあるものに対するNOTでしか表現できない感情や状態は、
確実に、ある。

身近なところで言うと、
昼ごはんに食いたいものが決まらないときなんかがそうだ。
「マックにする?」「マックって気分じゃないなぁ…」
「じゃあ、サラダ?」「サラダでもないなぁ」
というときは、最終的な正解がカレーでもそれには気づかず
"マックじゃない"、"サラダじゃない"としか言えなかったりしますよね。

深刻な例でいうと、僕は以下のことだと思う。

--------ここから自分の映画『東京彗星』のステマです--------

自殺するというDO○○はしないけど、
ちゃんと生きるというDO○○も無理で、
NOT●●…生きていたくない、
という状態の人は、日本にたくさんいると思う。

生きていたくない。

死にたい、というDO○○ではない。
NOT●●、NOT生きる、生きていたくない、だ。

自殺するほどでもない。死にたいわけでもないけど、生きていたくもない。

これを映画で描くのは難しい。
映画はDO○○だからだ。

"生きていたくない"、という曖昧な感情は
わかりやすく"死にたい"に変換され

表現としては手首を切ったり電車に飛び込もうとしたり、
屋上に立ったりといったDO○○=自殺しようとする
という表現にされがちだ。

その理由に関しても、
失恋したり、恋人が亡くなったり、
事業が失敗したり、いじめられたりということが
"あった""ある"という表現にするしかない。

でも、そういう強烈にしんどいことがなくても、
生きていたくない、生きてく気力がない、
という人は多いんじゃないか
と思っていた。

現実では、人の気力や生きるチカラは、
ドギツイ不幸の直後じゃなくて、
それを乗り越えようと耐えて耐えてふんばってた果てに
もうギリギリの状態のときに、
投げたティッシュがゴミ箱に入らなかったとか、
生卵おっことしたとかほんの些細なことで、
コップの水があふれるようにぷっつり切れるんじゃないかなと。

人が職場や学校が嫌だ、行きたくない、と思うのも、
嫌なやつがいる、嫌いなやつがいる(DO○○)から嫌だ、じゃなくて
好きなやつがいない、頼れる人がいない(NOT●●)から嫌だ
というのもあるんじゃないかと。

感情や行動は、特定の出来事とそんな単純に紐付いてない。

こういうとき映画は、
"死にたいほどの出来事が「ある」"ことは劇的に描けるけど、
"生きていこうと思えるなにかが「ない」"ということは描けない。

やるとしたら、セリフにするしかない。

「僕には頼れる人がいないんです…」

でも、そんなこと現実で明確に言うか?

追い詰められた人が客観的に自分の感情を言語化できるのだろうか?

無理だと思う。できる人もいるだろうけど、稀じゃないかな。
読書体験がわりと豊かじゃないとけっこう無理だ。

そういうのを吐露や喧嘩のシーンでセリフで表現するのは否定しないし、
アメリカのドラマなんかはかなり具体的に自分の感情を説明するセリフが多くてそれがわかりやすくていいなぁとも思ってるから、なにが正しいとかはないんだけど。

そんな、現代のこと、映画表現のことをいろいろ考えて
自分がひねり出したひとつの答えが、
あいかわらずステマですけど
僕がつくった映画『東京彗星』です。

ふつう映画が2時間、ドラマが45分11話とかかけて描くところを
短編の25分だけでやってるから、
初見だとある登場人物の動機がわからない、説明が足りない、
というツッコミがすごい多かった。

でも当事者(その登場人物)からしたら、「わかってたまるか」なのだ。
本人すらわからないのだから。

その人物は、「1年後、東京に彗星が落ちる」という発表を受けて、
避難を拒否して東京に残る。
自殺するほど死にたいわけでもないが、
生きていたくもなくなってしまっていたから
だ。

理由はいろいろある。
いろいろなのだ。ひとつじゃない。

親が死んだ、
仕事をクビになった、
同世代の友達が大学で楽しそうにしてる、
金がない、
フラれた、
トイレットペーパーが切れた、
チャリがパクられた、
など…。

でもそのどれかひとつがわかりやすい理由ではない。
いろんなことが積み重なって、
ある日些細なことでぷっつり切れてしまったのだ。

どれかひとつがきっかけ、みたいに見えないようにしたかった。
なにかひとつのせいにしたら、それさえ解決すればおっけーみたいになる。
現実はきっとそうじゃない。

そういえば、当初この人物は肉体労働中の事故で足に障害をかかえて、
それがきっかけで自暴自棄になっていくというアイデアもあった。

でも、
「そういう特定の何かのせいじゃなく
時代の空気で自暴自棄になっている方がリアル」

という師匠のアドバイスで、その設定はやめたのであった。

現実にはそういった怪我や病気をきっかけに働けなくなり、
困窮のスパイラルに陥ってしまうケースが多いのは
調べてわかってはいたが、
かといってじゃあ怪我する前は
安定して楽しい気分で生きていたかというと、違うと思った。

不安は蓄積する。

その蓄積を2時間描けない以上、
25分の短編では"理由を特定、明確化して表現しない"ということにした。あ、また否定形。

死にたいと言うほどでもなく、じゃあ何がしたいと聞かれてもわからない。
どうすればいいのかわからない。何が理由かもわからない。

「死にたい」というDO○○じゃない、
「ただ生きていたくない」というNOT●●の否定形だから、
25分ではなかなか伝わらないかもしれない。

でも、安易にDO○○に変換せずに描いてみました。

「死にたいわけじゃないけど、生きていたくもない」と思っていた男が、
心の底から「死にたくない」と口にするまでの物語。

映画『東京彗星』は年内に都内劇場公開予定ですが、
直近だとSKIPシティ国際Dシネマ映画祭2018で上映です。是非是非。

http://www.skipcity-dcf.jp/films/japanese_short03.html


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