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感情は記憶に優先する

若い頃に繰り返し聴いていた曲を数年あるいは数十年を隔てて改めて聴いてみると、同じ曲であっても当時とはかなり異なる印象を受けることが少なくない。これは、同じ曲を聴いてもその曲を認識する脳や意識は当時と現在とは決して同じではないということを意味している。同様のことは以前観た絵画を後に再び観た場合や以前読んだ小説を後に再読した場合にも言える。私たち人間(意識主体)は脳実質に重大な障害を受けない限り物心ついてから蓄積された記憶の大半は死の直前まである程度維持される。この記憶に基づいて自己同一性は保たれてはいるが脳実質は物理的にも生物学的にも化学的にも変性し続けており、それに伴うニューロン・ネットワークの変性や記憶の蓄積度の変化、さらにはDNAレベルの変化等により、記憶の内容も微妙に変化し続けている。

私は比較的最近まで、旅行に行く時は(原則的に)敢えてカメラを持たないで出掛けることに決めていた(ちなみに数年前からはミラーレス一眼カメラを携帯している)。それは写真に写っている“景色”はどんなに綺麗に見えてもその時に自分の目で実際に見た景色とは違っているため、本当に素晴らしい景色は自分の脳裏にだけ焼き付けておこうと思ったからだ。しかしながら、よくよく考えてみると、当時私が見た景色は私の網膜を通して大脳視覚野に伝えられた神経興奮(電気信号)が脳内のニューロン・ネットワークで処理されて創出された意識現象にすぎない。その景色を後から思い起こすことができるのは蓄積された過去の記憶が脳内で電気的・化学的にある程度再現できるからだ。換言すれば、当時私の脳が捉えた“外界”という現象は私の脳内に記憶されているだけでありその記憶も当時の記憶と同一である保証は全くないということだ。

このように考えると、写真に写っている景色と私の脳内に蓄えられている景色とどちらが当時実際に見た景色(現象)に近いのかと問えば、むしろ写真のほうではないかという解釈も成り立ってしまう。写真表面の化学的変化よりも脳実質の変化のほうが激しいからだ。さらに、デジタル画像であれば、記録されている情報自体は基本的に不変だ。ただし、写真を見る時の脳実質や意識に変化が生じていることに注意しなければならない。過去の出来事は過去に確実に発生した事象ではなく、過去のある時点に外界(認識対象)と認識器官である脳(ニューロンのネットワーク)との間で創出された現象にすぎないからだ。すなわち過去に確実に存在した(と思われる)すべての出来事は元々実在していたわけではなく、脳によって捉えられた現象の一部が剥がされて物理的な記憶媒体ならびに私たちの脳内に記憶されているにすぎない。それらの記憶も私たちの意識主体の消滅により、いずれ失われる運命にある。ただ、それでも絶対に疑えないのはその時々に「美しい」とか「きれい」とか思ったその感情(感動)ではないだろうか。記憶の風化によっていかにその形を変えようともその時々の感情や感動の存在だけは何人(なんぴと)も否定できない実存的現象なのだ。

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