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自己意識の形成

音楽鑑賞が大好きな私は現在3つの音楽配信サービスを利用している。最も好みのジャンルはクラシックとジャズだが、特にジャンルを限定せずその時々の気分に合わせてポッポスもロックも歌謡曲も民族音楽もなんでも聴きまくっている。以前は「音楽はやはり生(ライブ)で聴かなくちゃ」という思いから頻繁にコンサートホールやライブハウスに通ったものだ。その後レコードやCDを大量購入していた時期もあった。しかしながらインターネット上での本格的な音楽配信サービスが始まってからというもの音楽鑑賞はもっぱらSpotify PremiumやYouTube Music Premiumを利用するようになった。

CDや音楽配信サービスを介して聴く音楽は生演奏と違い臨場感には欠けるし、そのディジタルサウンドは数十年前のレコードプレーヤーから流れるアナログサウンドとも異なる。それでも音楽そのものが発する”Something Great”としか表現できない空気振動の特定のパターンが時に私の心に勇気と感動を与え、時に大いなる喜びを与え、またある時は私の心を優しく癒してくれるのだ。このように私の心に様々な感情を呼び起こす音楽(ライブを含む)は、現実に何らかの実体として存在(すなわち実在)しているわけではなくて実際には歌手や楽器から発生する空気振動の特定パターンを感覚器官である聴覚を介して脳が電気的に処理し再現しているにすぎない。

とはいっても音楽に限らず元々外界には色や音や匂いといった属性は物理的な実体としては存在せず、「艶やか」とか「美しい」とかいった質感もすべては物理的属性を発現させる現象と"認識器官(脳)"との相互作用(関係性)から生じる脳内現象にすぎないのだから、私が「あの歌手の属性だと信じている声」は決して「偽りの声」ではなく間違いなくあの歌手本人の声でもあるのだ。外界すなわち森羅万象は私たちの意識の存在とは無関係に存在するように思えるが、その外界は私たちの意識の存在がなければいかなる意味をも持ち得ない。

それでは「世界を分節し概念化し、意味付けを行う」意識とはそもそもなんぞや?私たちの祖先 (ホモ・サピエンス) が大脳を飛躍的に発達(ネットワーク化)させることにより外界を認識する高度なシステムを作り上げていったことは間違いないが、だからといって外界を認識するのに必ずしも意識(自己意識)が必須であるとは言えないようだ。ちなみにジュリアン・ジェインズは「3000年前の人類は意識を持っていなかった」と主張している。私はこの主張には必ずしも同意しないが、言語(特に高度に発達した言語体系)の存在が自己意識の形成に大きく関わっていることだけは間違いなさそうだ。

そもそも、意識(自己意識)はある特定の時点で寸時に点火するのか、段階的に徐々に育まれていくものなのかがよく分からない。自分自身の経験に照らし合わせても3歳頃の記憶はあるのだが、それ以前の記憶は残念ながら全く(?)ない。1歳から3歳までの間に相当数の言葉を使っていたにもかかわらず、脳の発達程度が他者と自己を区別し自己意識を生ぜしめるまでには至っていなかったので記憶も残っていないということなのだろうか。ただ私にははっきりした自己意識すなわち自己認識能力がなくても「漠然とした意識」というものが存在するような気がして仕方がないのだ。

自己意識の形成には高度なシンボル化能力を有することが大前提になることは間違いないのだろう。とはいえ、たとえそのようなシンボル化能力がなくても、あるいは体系的な言語を有しなくても、なんらかの「漠然とした意識(意識の萌芽状態)」はひょっとして存在するのではないか、という気がするのだ。そうなると私たちの直系の祖先であるホモ・サピエンスやホモ・ネアンデルターレンシスはもちろん、それ以前の原人や猿人、さらに類人猿やその他の哺乳類にも「漠然とした意識(あるいは「心」と言い替えてもよい)」が存在する可能性を否定できないということになる。

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