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存在者の存在を存在たらしめる意識

日曜日の朝。窓から空を見上げると爽やかな青空が広がっている。そして今、私の耳にはスピーカーから流れる美しいヴァイオリンの調べが聞こえている。しかしながら、このようなのどかな日和もヴァイオリンの美しい音色もそれを認識する意識主体が存在しなければ、それらの事物・事象はいかなる意味も持ち得ない。すなわち、存在者の存在を存在たらしめている存在こそ意識(自己意識)なのだ。もし死によって(私の)意識が消滅すれば、その後に存在するであろう一切の事物・事象すなわち森羅万象はもはや私にとって存在するとも存在しないとも言えないような存在に無意味化されてしまうのだ。

死による自己意識の消滅を待つまでもなく、例えば、今この瞬間に、私たちの地球から数億光年離れた地球型惑星に生息するであろう私たちに姿形が近似したヒト型知的生命体のことを想像してみよう。彼らが実際に存在しようがしまいが、そもそもそれを確かめるいかなる手段をも持ち得ないのであれば、私たちにとって”彼ら”は存在するとも存在しないとも言えないような存在、すなわち最初から存在しないのといかなる違いもないのだ。存在者の存在を保証するにはその存在を認識する意識主体の存在が不可欠であり、この意識主体が存在しなくなれば、一切の存在者は夢幻のごとく雲散霧消してしまう。

一般的に「生命体と非生命体」は対立した概念のように捉えられているがはたたしてそうなのか。この地球上の生命体も遠く遡れば非生命体である単純な物質から誕生したはずであり、生命体と非生命体は連続している。そして、これら生命体の進化の過程で脳という精巧なシステムに意識が芽生えることにより、私たちは初めて意識を有しないその他の存在者とは異なる独特な存在者になり得るわけであり、そういう意味では、「生命体vs.非生命体」とは別に「意識vs.非意識」という図式がより重要な意味を持ち得るかもしれない。さらに言えば、意識主体は、必ずしも地球型知的生命体に結び付く必然性はなく、私たちの想像をはるかに超えた存在者に結び付いたとしてもなんら不思議ではない。

いずれにせよ、存在者を存在たらしめるのは意識であり、意識が存在しなければ、存在者の存在自体が無意味になってしまう。この存在の無意味化こそ、私たちが直感的に捉えている「無」の実体なのだ。それでは私たちの個々の意識主体が消滅すれば、一切の存在はその意味を失い”非在化”されるのかといえば、現時点ではなんとも言えない。なぜならば、私たちには、現在の意識主体の消滅が直ちに意識自体の意識の消滅を意味することになるのかどうかを知る術(すべ)がないからだ。ただ、一般的には、個々の意識主体が消滅しても、その事実を認識する他の意識主体が存在する限り、その存在者が存在した痕跡は残ると言える。

それでは、存在者の存在を認識する意識主体がすべて消滅した場合はどうだろう。存在者の存在を存在たらしめる一切の意識主体が存在しなくとも、森羅万象は存在し続けるとはたして言えるだろうか。存在者の存在を認識する意識主体が存在しなければ一切の存在者の存在は保証されず、ここで森羅万象(the universe)は無(nothingness)と同義語である「一切皆空」となってしまうのだ。ここで「それでは、そもそも意識とはなんなんだろう」という疑問が湧き上がってくる。私が「意識」の謎を追い求めている所以がここにあるのだ。

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