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【歴史・時代小説】『本能寺燃ゆ』第五章「盲愛の寺」 86

「どうじゃ、十兵衛のつくった軍法度は? なかなか良いものであろう」

 殿は、まるで己の手柄のように喜んでいたが、それを見た信忠や信意(信雄)、信孝は、眉を顰めていた。

「確かによき出来とは思いまするが、これは、いままでの掟をただ取りまとめ、書面に認めただけではござりませぬか?」

 と、信孝は不満そうに口にした。

 信忠や信意は黙っていたが、その表情は信孝と同じことを言っている。

 新参者が、織田家のなかで重きを置かれるのが、気に食わないようだ。

 当然だ、殿が亡くなった後の織田家の舵取りは、この三人が取ることになるはずだ。

 そのとき、自分たちよりも実力のあるものが家臣にいては、彼らもやりくにかろう。

 彼らが扱いやすい家臣とは………………、

「日向(明智光秀)の定めた法度もよいとは思いまするが、褒めるほどのものではないかと………………」

 信意が、殿の様子を見ながら口を開く。

「左様、日向よりもよき働きをする武将は、たくさんおります」

 と、信忠。

「ん? 誰じゃ?」

「もちろん、筑前(羽柴秀吉)!」

 やはり、信忠にとって秀吉が筆頭か。

 その秀吉も、十兵衛には相当妬いているようだ。

 秀吉も新参者 ―― 彼も汗を流していまの地位を築いている ―― お互いに相通じるものがあるのだろう、だからこそ、負けてはいられぬという思いもあるはずだ。

 負けてはおられぬという気持ちが焦って、行き過ぎた行動に出て、殿からはあまり良い顔をされないのだが………………以前に、その鬱憤が爆発してしまったこともあった。

 今回も、負けてはおられぬと思っただろう。

 京の馬揃えから外された無念もあったのかもしれない ―― 長谷川秀一に、当日の様子をつぶさに教えてほしいと書状を寄こしたらしい。

『なんか、惟任殿に対して、これでもかと恨み言も書かれてましたよ』

 と、秀一は苦笑いしていたが。

 外したのは十兵衛ではなく、殿なのだが。

 三月頃には、その残り香だけでも嗅ごうと思ったのか、京まであがってきて村井貞勝らと清水寺で能を楽しんだらしいが、その席でも『残念だ、残念だ。惟任殿のせいじゃ』と嘆いていたと、貞勝からの書状にもあった。

 ともかく、この悔しさをもとに、秀吉は兵をさらに西へと動かした。

 六月二十五日、姫路にいた秀吉は二万の兵をもって、備前・美作に侵出し、そのまま北進、同じく但馬の有子山にいた実弟の秀長も西へと進み、因幡の鳥取を取り囲んだ。

 鳥取城は、但馬山名氏の居城であったが、この城をめぐり、因幡山名氏、毛利氏、尼子氏、因幡武田氏が激しく交戦、天正八(一五八〇)年には山名豊国(やまな・とよくに)が城主であった。

 その年の六月に、秀吉が因幡に入り、鳥取を取り囲む。

 豊国は、三カ月余り籠城したが、持ちこたえられぬと ―― もともと信長とは誼を通じていたのもあったが、和睦するとなったらしい。

 が、家臣団の反対にあい、豊国だけ城を抜け出し、降伏した。

 その後、毛利から何人か城主として遣わされたが、今年の三月になって吉川経家(きっかわ・つねいえ)が入城した。

 毛利家の重臣吉川家の分家で石見吉川家の出自、文武ともに優れた武将と聞き及ぶ。

 その経家を鳥取に入れたということは、毛利はここを何としてでも死守しようと考えているのだろう。

 経家自身も、自らの首桶をもって乗り込んできたらしい ―― 決死の覚悟である。

 城兵は二千ほど。

 秀吉の戦い方からみて、必ず籠城戦になろうと仕度をはじめる。

 鳥取の西に、東南から流れゆく袋川がある。

 これがさらに、千代川へと流れ込み、海へと出る。

 ここから兵糧や毛利の兵を迎え入れようと、出城をふたつほど築いた。

 経家は、焦っていた。

 なぜなら、城内にほとんど兵糧がなかったからだ ―― 二千の兵で三月分ほど。

 どうも、秀吉にやられたらしい。

 これよりも前に、若狭の商人たちに命じて、城の周辺で米を高値で買い漁らせたようだ ―― これに目をつけた鳥取の城兵らが、銭儲けで蓄えていた兵糧を売ってしまったらしい。

 これではまずいと、経家も兵糧の確保に急いだが、それよりも前に、秀吉らが鳥取を取り囲んでしまった。

 さらに秀吉は、百姓らを城へと追い立てる ―― その数二千余り ―― あわせて四千人が、わずかばかりの兵糧で立て籠もらねばならなくなる。

 六月下旬に、姫路を出立した秀吉は、七月上旬に鳥取に到着。

 鳥取の東八町ほどの山に本陣を置くと、すぐさまは敵城と出城を含む六~八町の距離をぐるりと取り囲んだ。

 堀や柵、塀や土塀を築き、多くの櫓を建てるなど、鼠一匹逃さぬ覚悟。

 さらに、毛利からの後詰に対抗するべく、陣営の後方にも柵や塀を張り巡らし、海も小舟で警戒に当たらせ、鳥取城を完全に包囲した。

 これより、鳥取の地獄がはじまる(鳥取城の渇え殺し)。

「それを考えれば、修理亮(柴田勝家)も、見事に北陸方面を抑えておると思われます」

 信孝は、勝家の肩を持つのか?

 北陸でも動きがあった。

 天正九(一五八一)年五月四日、殿は能登七尾城代として遣わしていた菅屋長頼に命じて、越中願海寺の城将寺崎盛永(てらさき・もりなが)を攻めさせた。

 もとは織田方であったが、先に上杉勢が越中に進軍してきたとき、これに内通したとの疑惑があった。

 盛永、喜六郎(きろくろう)親子は捕らえられ、惟住(丹羽)長秀の佐和山城に押し込められた。

 二十四日には、越中松倉の敵将河田長親(かわた・ながちか)が病死、これによって越中の半分以上が織田の傘下に入る。

 六月二十七日、能登七尾にいた遊佐続光(ゆさ・つぐみつ)親子が反逆を企てたと切腹を命じられ、自刃 ―― 続光は、能登守護畠山氏の家臣であったが、上杉に内通し、織田派であった重臣長氏一族を皆殺しにしたが、結局は織田家に降伏していた。

 同じく家臣であった温井景隆(ぬくい・かげたか)兄弟は、自らも処断させるのではと思い、出奔した。

 七月六日、越中木舟の石黒成綱(いしぐろ・しげつな)も上杉方との内通を疑われ、一門ともども安土への出頭を命じられる。

 が、命を狙われると思った成綱らは、長浜辺りで行方をくらます。

 これを長秀が探索すると、とある町屋に隠れていることを取り囲まれ、これまでと切腹。

 さらに、佐和山に押し込められていた寺崎親子も切腹を命じられ、これに従った。

「それを思うと、五郎左衛門尉(丹羽長秀)もよき働きをしておりますな」

 信意は、長秀推しであるようだ。

 三者三様、考え方はあろうが、それぞれが違う家臣に信を置くようでは、織田家の先行き、如何様になるか?

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