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『マチネの終わりに』第五章(11)

 沈黙が、唐突に脇から彼を追い抜いてしまった!――そして、何も聞こえなくなった。どういうわけか、しんとしていて、時間が、虚無のように澄んでいる。蒔野は、舞台の照明が目に入った時のように、その静寂を少し眩しいと感じた。人混みで財布を掏られたかのように、音楽がどこにも見当たらなくなっていた。手元にはただ、激しい鼓動と火照りだけが残されている。

 聴衆は、突然、演奏が止まってしまったことに驚いた。蒔野自身も呆然としていて、何が起きたのか、わかっていない様子だった。すぐに演奏に戻ろうとしたが、指はただ、指板の上をうろつくだけだった。蒔野はもう一度、驚いた顔をして、怪訝そうに、自分の両手を見つめた。

 会場がざわつき始めると、彼は何も言わずに立ち上がって一礼した。客もどうしていいかわからなかったが、疎らに拍手が起きた。蒔野は、ぼんやりと会場の空席の一つに目を遣った。そして、思いつめた表情のまま、一切笑みを見せることなく、そのまま舞台を降りてしまった。

 楽屋に戻った蒔野は、舞台上で見せた不可解な仕草のせいで、楽譜が飛んだのではなく、手に何か異変があったのではないかと真っ先に心配された。

 学生たちは、こんな人でも楽譜が飛ぶことがあるのかと――しかも、誤魔化すことも再開することも出来ずに、あんなにぶざまに止まってしまうとは!――最初は目を丸くしていた。が、それまでの演奏が圧倒的だっただけに、さすがに不自然に感じて、ギタリストという職業を見舞う、何か悲劇的な一瞬に立ち会っているような興味深げな目で、彼の手を注視していた。

 思いがけない反応だったが、蒔野は敢えて否定せず、ただ、「いや、ちょっと、……でも、大丈夫だと思う。」と、両手を握ったり開いたりして、ようやく微かに笑顔を見せた。

 着替えたいからと人払いすると、ソファに腰掛けて、しばらくただ、ギターを見つめていた。心の整理がつかなかった。溜息を吐いて立ち上がると、服を着替える前に、携帯電話に手を伸ばした。確認するのを躊躇したが、もう、終わったことなのだと、自分に言い聞かせた。


第五章 再会/11=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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