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『マチネの終わりに』第五章(17)

 ジャリーラの滞在許可は下りた。他の国から来た彼女以外の四人は、全員不許可だった。

 赤十字の職員は、安堵した様子だったが、大仰に喜んでみせることはしなかった。

 彼女にとって、ジャリーラは飽くまで一つの事例であり、幸不幸を問わぬ過去の数多の事例が、その意識を掠めているようだった。

 彼女は、フランスに滞在しながら第三国へと亡命するための手順を、手引きの冊子に赤いボールペンで印を付けながら丁寧に説明した。必要書類や関係各所の連絡先、亡命希望者を支援するNGOのリストなど、洋子も初めて知ることばかりだった。

 最後に今後の滞在先として、パリの北駅近くの修道院が運営するホームレス用のシェルターを紹介した。

 洋子は即座に首を振って、

「うちへいらっしゃい。好きなだけいていいから。」

 とジャリーラの手を上から握った。

 別れ際に、赤十字の職員は、洋子をつくづく眺めて、

「彼女はラッキーね、あなたがいて。」

 と言った。

「付き添うことくらい、別に。」

「あなたが記者だから。無意識でも、悪く書かれることを気にするでしょう、警察も裁判所も。」

「……そうかしら?」

「わたしもよ。」と、彼女は本気とも冗談ともつかぬ口調で言った。「RFPのイラク報道なら、わたしもきっと、あなたの記事を読んだことがあるわね。」

 そう言うと、この初対面の女性は、ようやく腕組みを解いてジャリーラに手を宛てがい、勇気づけると、唐突に洋子にこう声を掛けた。

「あなた自身も大事にしないとね。辛い現実ばかり見ているけど、その分、他で人生を楽しまないと。」

 洋子は、バッグに書類を収めて顔を上げると、彼女が最後に覗かせた、自分に対するまた別の共感に打たれて、

「そうね、あなたも。」

 と頬を寄せ合い、挨拶を交わした。

 蒔野は、洋子の自宅に上がって、リヴィングで事の顛末を聴いた。


第五章 再会/17=平野啓一郎 

#マチネの終わりに


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