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『マチネの終わりに』第六章(21)

 それは、……だから、彼女はわたしのために泣いてくれましたし、わたしをずっと心配してくれていました。パリの誰かが、『でも、高々、六週間やそこらでしょう? 二回行ったって言っても、合わせてたったの三カ月。兵士として戦闘の最中にいたわけでもなくて、ホテルでじっとしてたんでしょう?』って言ったとしても、ジャリーラはきっと、わたしを庇って弁護してくれます。――もちろん、わたし自身、大したことは出来ないまま、帰国してしまったという意識はあります。その無力感は、誰よりも知ってます。イラクの人たちを残してきたなんて発想自体、傲慢ですけど、……いずれにせよ、ジャリーラを守ることが、わたしが今、イラクのために出来る一番確実なことなんです。あそこで今、失われつつある膨大な数の命を思うなら、あまりにもささやかですが、人一人の命を救える――救う手助けが出来るっていうのは、決して小さなことでないでしょう? 彼女と生活を共にすることで、わたしは、その重みを噛みしめてるんです。だから、……」
 洋子は、喋りながら、医師がジャリーラとの別居を勧めるのではないだろうかと、次第に不安に駆られていって、彼女が自分を必要としているだけではなく、自分の方こそ彼女を必要としているのだと強調した。しかし、どこか無意識に、精神科医に通じるように話を整理してもいて、共感される内容ではあったが、口調は熱を帯びることなく、全体にモノトーンな印象だった。
「あなたにとって、今彼女が必要なら――しかも、その存在に愛を感じているのなら、一緒に生活することは決して悪いことではありませんよ。ただし、彼女に比べれば、自分はさしたる問題を抱えていないはずだと、苦しみを押さえ込もうとするのはよくないです。あなたは、戦争に行ってきたんですよ。その体験を、何か耐えられること、普通は克服できることと考えるのは、あなたが取材を通じて考えてきたこととは、違うんじゃないですか?」
 洋子は、その言葉にハッとして唇を噛むと、自分が涙ぐみそうになるのに驚いた。そして、大きく息を吐くと、同意するように頷いた。


第六章・消失点/21=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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