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『マチネの終わりに』第五章(10)

 少なくとも、その音に身を委ねている限りは、この世のあらゆる不測の事態の不安から、聴衆は解放されているのだった。

 ミサを終えて教会から溢れ出してきた群衆というのが、この第三楽章の作曲者の着想だった。それに忠実であるならば、疾走する想念というよりは、むしろ際限もない多様性の明滅であるべきか。マスタークラスでもそんな話をした。しかし、この時の蒔野は、聴衆の感覚をたった一本のあえかな糸で束ねて導いてゆくように直走っていた。「速すぎて情緒に欠く」としばしば批判された十代の頃よりも、近年は少しテンポを落として演奏していたが、この日は、その過去を追想するかのように、次第に加速していった。

 何かを終わらせようとしながら、覚えず反復してしまう。逃れるつもりで、気がつけば自らがそのあとを追っている。

 しかし、苦悩のための祈りの予後とは、固よりそうした時ではあるまいか。イラクで間一髪、死を免れてパリへと戻って来た、小峰洋子でさえ、恐らくは。――

 その瞬間、蒔野の中で何が起きていたのだろうか?

 彼は、舞台に立った時から、洋子の姿が客席にないことに気づいていた。前日に確認したメールでは、来るという返事だった。一曲終える毎に、彼女が座るはずだった、左手奥の階段脇の空席に目を遣った。もう来ないのだと彼は悟った。ここにだけでなく、自分の許には。彼女への思いの裂け目から、ゆっくりと出血が続いていた。しかし蒔野は、自身の演奏家としての矜恃にかけて、それとこれとはまた別の話だと断言するはずだった。

 彼の音楽は、その時、ただ静かな場所を駆けていただけだった。遠くでこの上もなく美しいギターの調べが聞こえていて、ただそれが、自分の奏でている音なのかどうかはわからなかった。それから、彼は静まってゆくのは、前方ではなく背後ではないのかという奇妙な考えを過ぎらせた。追いつかれる?……昨年来、コンサートのリハーサルの度に感じていたあの戦慄が、不意に背中の一面に広がって長く続いた。楽曲は、展開部の最後に差し掛かり、半音ずつの上昇を経て、最初の主題に戻ろうとする。まさにその刹那だった。


第五章 再会/5=平野啓一郎 

#マチネの終わりに

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