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斎藤久志監督について

自分の古き良き仲間だった斎藤久志さんが亡くなった。

2022年の12月末
突然仲間から連絡があった。
長い間、連絡はしていなかった。

ガンで闘病されていたらしい。自分は知らなかった。
亡くなった連絡を受けてから知らされた。

連絡があったのは井口昇監督だけで、他の人からは連絡はなかった。
井口昇も突然の事で動揺していた。
この件で連絡があったのは、他には映画芸術誌の編集の方だけだった。
斎藤監督について書けないか?という依頼だったが、情報がなく詳しい事もわからず、釈然とせず、とても何か書ける状態ではなかったのでお断りした。
映画芸術のその号も読んではいない。

それからは特に情報もない。
こちらから知人に聞く事もなく時は流れた。

あれから一年。

どうやらPFF(ぴあフィルムフェスティバル)で追悼上映が行われたらしいが、自分は知らなかった。気がついたら終わっていた。

気持ちはモヤモヤしたままだ。

とりあえず、自分の知ってる限りの斎藤監督の思い出を記して残しておこうと思った。
なぜなら自分を最大限に評価してくれて、そのうえで具体的な映画の仕事に何度も誘ってくれた、ほとんど唯一の人だったからだ。



脚本の手直しを現場で作業する斎藤久志監督 2001年3月 撮影平野勝之

最初に会ったのは1985年、ぴあフィルムフェスティバル(PFF85、以下PFF )の上映会場だった。
自分は8㎜映画「狂った触角」という映画で初入選。
斎藤久志監督は8㎜映画「うしろあたま」(高野文子原作)で入選していた。

斎藤監督の「うしろあたま」は長編ドラマの劇映画だが、後半、突然「カット」の掛け声と共にドキュメンタリーになっていく映画で、この年のPFF最大の話題作だった。
会場で会った斎藤監督は、坊主頭で、こざっぱりとした格好だった。
何を話したかは覚えていないが、堂々としていて、いきなり「映画監督」という風情を醸し出していた。
「商業映画の監督になりたい」とキッパリとした口調で明解に言い切った。
この段階では単なる8㎜映画を作っている若手という立場であるにも関わらず、すでに佇まいは立派な「映画監督」だった。
これほど監督っぽい人も珍しいなと思った。

斎藤監督はこの年、PFFの第二回目の「スカラシップ」(次回作をぴあがプロデュースして16㎜映画を制作する権利)を獲得した。

その授賞式からしばらく経ったある日、彼から突然電話があった。
PFFで制作する次の映画の主演をやってほしいという依頼だった。
「ええ???」
自分はまともな俳優の経験はなく、面食らって自信のない答え方をしていたと思う。
覚えているのは
「おまえしかいない」と言われた事だった。

ウソかほんとか、そこまで言われたら断るわけにもいかず承諾した。

その頃、自分はまだ浜松に住んでいたが、撮影のためしばらく東京に行った。
冬の撮影だった。
自分が21歳ぐらいの頃だ。

斎藤久志監督の映像は、カメラはフィックス、基本的にロングショットを多用し、ほとんどの場面を1シーン1カットで撮影していくスタイルだった。

当時、相米慎二監督が大きな話題となっており、相米監督も1シーン1カットを多用していた。斎藤久志が相米監督の影響下だったのかはわからないが、相米監督はアクションによる俳優の「動」が基本だったのに対し斎藤監督は「静」が基本だった。

その「静」の1シーン1カット撮影は地味ながらも強烈な頑固さを秘めていた。
カメラを動かしてたまるか、という声が今にも聞こえてきそうなほどだった。

映画は「はいかぶり姫物語」というタイトルで完成し、1986年のPFFで上映された。
この映画で驚いて印象に残っているのは、主演女優が売春をしたらしき後のホテルの室内シーンで、女優が一人、帰り支度をしているのだが、女優が途中からフレームアウトしてしまう。しかし動かずフィックスのカメラはそのまま回り続けている。誰もいない画面にセリフも無くゴソゴソする音だけがしばらく響く。通常ならばフレームアウトして少しでカットするだろうシーンを長回しでそのまま使っているのだ。
これにはちょっとビックリした、と同時に
「頑固な石頭め」と思った。

自分の芝居はあまりできがいいとは思えず斎藤監督には申し訳なかったと今でも思っている、しかし、ラスト付近のレイプシーンだけは現場で斎藤監督から「こういうのは上手いな」と褒められたのをおぼえている。

斎藤監督は大島弓子のマンガが好きで「これを読め」と、撮影前に「バナナブレットのプティング」というマンガを借りた。

読んでみたが、残念ながらオレにはサッパリわからなかった。

斎藤監督は少女になりたいとも言っていた。
女性ではなく少女だった。
少女という存在そのものにかけがえのない価値を見出しているように思えた。
それはスケベな意味ではなく、

「女子高生同士が自然に手をつないでいても変ではないだろ?その自然な関係性が羨ましいんだ」と語っていた。

1986年は自分にとって映画仲間がたくさんできた年で、池袋の文芸座近くの喫茶店によくみんなで集まってはいろいろな事を話していた。

斎藤監督はいつもエスプレッソを頼んでいた。
エスプレッソという飲み物を初めて知ったのはこの時だった。
ハイカラだなと思った。
斎藤監督はジッポーでハイライトに火をつけると熱く映画について語った。
時折、タバコとエスプレッソの混じり合った匂いを漂わせていたが、別に嫌ではなかった。
普通に接したら、少女という存在に強いこだわりがあるとは思えないまったく逆な佇まいが不思議に思えた。

最初に会った斎藤監督は坊主頭だったが「はいかぶり姫物語」の撮影中はゾロゾロと髪が長かった。
聞くと、半年に一度、坊主にするのだという。
その間は放置状態らしかった。

その後、「はいかぶり姫物語」に参加した経験が自分の作る映画にも影響していった。
その痕跡は、自分の8㎜映画「愛の街角2丁目3番地」と「雷魚」という二本の映画に色濃く出ている。
この頃、自分の映画でも1シーン1カットが多いのも斎藤監督の現場の影響だと思う。

その後も何かと関係は続き、新たな自分の映画のアドバイスや意見なども誠実に、また熱心に語ってくれた。
「平野が凄いのは、撮影中、偶然発見したものが次の作品では方法論になってるからいいんだよな」
こう言われたのがとても嬉しくて今でも覚えている。
自分では無意識に近い部分でやっていたことを理詰めできちんと言葉で返してくれる人だった。
劇映画バリバリの人なのに一方で、自分の「銀河自転車の夜」みたいな実験的な映画まで喜んでくれる事も多かった。

思えば斎藤監督の映画もそうだ。一見実験作には見えないが、ところどころにテレビに代表されるわかりやすさを否定した静かな反逆を見る事ができる。

「そんな事したらテレビみたいになる」

口癖のように言っていたのを思い出す。
映画の説明的なシーンを極端に嫌っていた。
斎藤監督の映画は思ってる以上に硬派だった。

少女という存在にこだわりながらも実は誰よりも過激なスタイルで静かに語るのが斎藤久志映画の特徴でもある

90年代に入り、自分はAVを作り始める事になった。
なんと、斎藤監督は自分のAVデビュー作のチーフ助監に入ってくれた。
石頭で映画監督然としている斎藤監督だが、実はとても柔軟にいろいろ考える事ができる人だった、
映画やAVの区別なくいつも真剣に対応してくれた。自分に限らず、気に入れば助監督やスタッフになる事も躊躇はせず、常に協力的だった。

AVでも何回か斎藤監督とは仕事をする事ができた。
中にはクソまみれ、汚物まみれの現場まであったが、笑って仕事をこなしていた。
彼が現場にいると安心感は大きかった。

90年代はAVの自信作は斎藤監督にも見てもらったし、時に彼が仕事をしていた日本映画学校に特別講師として呼ばれていったりもした。

そして時は流れ2000年
西島秀俊さん、唯野未歩子さん主演の「いたいふたり」でカメラマンとして参加する事になった。


「いたいふたり」撮影中のスナップ。唯野未歩子さんと斎藤監督 2001年3月 撮影平野勝之


同 西島秀俊さんと唯野未歩子さん



自分が映画にカメラマンとして参加したのは後にも先にもこの映画と、後に同斎藤久志監督によるもう一本の映画しか存在しない。
よくぞ呼んでくれたと思う。
そんな人は斎藤久志監督しかいなかった。

「いたいふたり」の後、もう一本、映画学校関係の映画のカメラマンを頼まれ参加した。
あまり記憶がないのだが、ラストシーンに近いシーンを撮影中、初めてカメラマンとして斎藤監督に意見を提案したのを覚えている。

室内のシーンで二人の人物、絵としてはロングショットで逆光のシルエットの感じが良いと思った。しかし、斎藤監督は1シーン1カットにして人物の表情が見たいので、そのままカメラを移動して寄りたい、と言う。
人物の表情が見たいのであれば、ここだけはカットを割ったらどうか?、また逆光のシルエットで顔の表情ではなく人物の全体像にして、寄らずに後ろ姿全体の表情そのものを見せていく演出ではダメなのか?と聞いた。
そちらの方が撮影的にはお客さんに伝わると思ったからだった。

ダメだという。

いくらか粘ってみたが、どうしても1カットにしてカメラを移動、顔の表情が見えるように寄ってほしいと言う。
撮影的には少々無理があるので提案したのだが、まったく受け付けようとはしなかった。
仕方なく疑問に思いながらも無理矢理カメラを移動させ、言うとおりに撮影した。

その時も
「頑固な石頭め」と思った。

その時は出会って15年以上経っていたのに、やはり変わっていなかった。

最後に会ったのは2010年だったと思う(たぶん)。「監督失格」完成直前の関係者だけの3回目の試写の時だった。斎藤久志監督にも見ていただいて意見を聞きたかったのでスタジオカラーに来てもらった。

見終わって、かなり動揺しているようだった。

斎藤監督はタバコを吸って一服すると、動揺を落ち着かせながら冷静に具体的に気になる箇所を指摘してくれた。
どの箇所だったか、今となっては思い出せないが、説得力あったので後の微調整の時に斎藤監督の意見を参考に手直しした。

その後は特に連絡も来なかった。こちらからも連絡をしないまま月日は流れていった。

今日は斎藤監督の事を思い出し、以前から書こうと思っていたこの原稿を、朝から一日中ずっと書いていた。
押し入れの奥から昔の写真を探して引っ張り出し、ネットで調べていたら、これを書いている12月17日が斎藤監督の命日だった。

単なる偶然だった。
何かが呼ぶのだろうか?

他にもいろいろ思い出す事はあると思うが、まずは記憶に残っている事を書いてみた。

次に斎藤久志さんが生まれ変わる時は、少女に生まれたらいい。
そして、同じ少女と、誰はばかる事なく存分に手をつないだらいい。

そう思った。

平野勝之 
2023年 12月17日