比較言語学のススメ(?)

この note は松浦年男先生が企画されたアドベントカレンダー 2022「言語学な人々」の24日目の記事として書かれたものです。

自己紹介

私,平子は,日本語の諸方言の記述と,それに基づいた歴史変化に関する研究をしています。特に興味は,音韻の記述と歴史,もっと狭く言えば,アクセント(史)研究を専門にしている(と思われている)者です。

私がアクセント(史)研究に従事するようになったきっかけ,いろんな方言の調査をするようになった経緯などについては,以下の記事で書きました。ご参考までに。

ここでも少し書きましたが,私自身は,学部時代からずーっとアクセントの研究ばかりやっていて,当然博士論文もアクセント史に関するものを書きました。統語論も形態論も意味論も語用論も知らないで,なんなら,分節音韻論についての知識も浅い私でした。「勉強しなくても論文を書ける(出来不出来は不問)が,いい論文は勉強しないと書けない」と,常々学生に向けて言っているのですが,まさに「勉強しな」いで,「論文を書」いてしまった,私です。アクセントの勉強はしてたけど,他のことはほとんどしてなかった。このことは,今でも私の中ではコンプレックスになってますが,それはまた,別の話。

「日本祖語について」

さて,日本語諸方言を対象とした歴史比較言語学的研究におけるランドマークスタディ,「日本祖語について」。服部四郎先生(1908-95)によって,『月刊言語』(大修館書店,現在休刊中(実質廃刊!?))で連載された言語学の(エッセイ風な)論文です。1978年1月号から,途中2回の休みを挟んで1979年12月号まで,全22回にわたって連載されたもので,日本語史研究,特に,比較方法による祖語の再建に携わろうとする人間にとっては,必読の文献です。

内容は多岐に渡ります。比較言語学の歴史から始まり,日本祖語の母音体系についての話,文献を用いた琉球言語史の話(そこから,漢字音の話にも繋がる),本土方言と琉球諸語のアクセント対応の話,祖語における母音の長短の話,などなど。ただ,とにかく,日本語諸方言を対象とした歴史比較言語学的研究を始めようというのなら,一度は読まなきゃ始まらない,そんな論文です。

私と「日本祖語について」の出会いは修士課程の学生だった2010年ごろだと思います。その後,博士後期課程の時に,研究室のメンバー何人かで,輪読会をしました。折よく,琉球諸語の専門家が数名いた上に,日本語史の専門家もいて,あの文献を読むのには,非常に良い環境だったように思います。

ただ,とにかく難しい。1回こっきり読んだくらいじゃ,理解できるようなものでもないですし,読むたびに新しくわからないことが出てくるもので,当時なぜか輪読会の進行を担当していた私は,毎回ヒーコラ言いながら,予習してました。それが,博士課程在学時,2012年ぐらいの話。

『日本祖語の再建』

それから5年ほど経った2018年,ご存じの通り「日本祖語について」は,他の諸論文とともに『日本祖語の再建』(岩波書店)としてまとめられ,出版されます。著者である服部四郎先生は既にお亡くなりで,その編集・校正・解説には,上野善道先生があたられました。

その後書き(と解説部)にも書かれていますが,私も,上野先生からのご依頼を受けて,この本の校正を手伝いました。何せ索引など含めれば700ページに近い大きな本です。お一人での校正は大変だとご判断されたのだと思います。ちょうど2016年に「「日本祖語について」を超えて」というワークショップを企画して,上野先生にコメンテーターもお願いしていた,私に手伝いをしてほしいとのお声がかかりました。非常に光栄な話でした。

「日本祖語について」と『日本祖語の再建』

そんなご縁もあって,曲がりなりにも「日本祖語について」(とそれに関連する諸論文)を(校正作業をしながら)何度も読んだ私,開拓社から出版された,林由華・衣畑智秀・木部暢子(編)『フィールドと文献からみる日琉諸語の系統と歴史』に「「日本祖語について」と『日本祖語の再建』―その継承と発展のために―」という,「日本祖語について」を中心とした『日本祖語の再建』のレビュー論文のようなものを書きました。結構,力入れて書いた論文で,索引含めて300頁強の論文集の中で,50頁以上を占める(全部で10章)というものです。

このレビュー論文の目的は,そこにも書いた通り,「「日本祖語について」を中心とした『日本祖語の再建』所収の書論文とその関連論文をもとに,服部四郎による日本語諸方言を対象とした歴史比較言語学的研究の成果とその意義を,可能な限り分かりやすく示すこと」と,「服部四郎の一連の研究を振り返り,この分野に残された課題を,なるべく具体的な形で提示すること」でした。それとともに,もう1つ,この論文で私が主張したいことがありました。それは,上記論文の末尾に書いたこと,つまり,「「比較方法」は得られたデータから祖語を再建・推定するためだけのものでは決してな」く,「伝統方言の記述や文献資料を用いた日本語史研究の場に生きる「理論」の1つで」ある,ということです。

比較方法と比較言語学

服部四郎によれば,比較方法とは,「2つ(以上)の同系語あるいは方言A, B(, C, ……)における,あるいは同一言語の2つ(以上)の異なる時代の共時態X, Y(, Z, ……)における或単語の間に歴史的つながり,すなわち伝承的つながりのあることを確認するための方法」です(服部 1971: 2)。
 特に,「2つ(以上)の同系語あるいは方言A, B(, C, ……)における」「或単語の間に歴史的つながり,すなわち伝承的つながりのあることを確認」し,その歴史的つながり・伝承的つながりを前提にして,「同系語あるいは方言A, B(, C, ……)」の共通の祖先の言語である「祖語」を「再建」して,その「祖語」から「同系語あるいは方言A, B(, C, ……)」がどのように変化することによって生じたかを明らかにするのが比較言語学です。

記述言語学と比較言語学の相性は悪い?

さて,近年,琉球列島の諸言語・諸方言を中心にした日本語諸方言の記述研究(総合的記述)が進展してきました。その背景には,様々なことが考えられますが,言語学内部のこととしては,類型論的研究の知見が記述研究の場に導入されたことがあるのだと思います。「他の言語ではXXXという現象がある」「世界の言語の中で見るとYYYという現象が頻繁に見られる」,そうであるなら,「この方言でもXXX/YYYという現象があるかもしれない」,という視点から,仮説検証型の面談調査による”未知”の言語現象の「発見」があった,あるいは,既知の現象であったとしても,その類型論的な位置付けが明確になり,より精緻な記述が可能になった,ということがあったのだと思います。さらには,面談調査による調査研究と談話データ(テキストデータ)の分析とを組み合わせた総合的な記述研究が推し進められた結果,新たな事実が発見されたということもあるでしょう。いずれにしても,類型論的研究と記述研究の「相性」は良いように思います。少なくとも,比較言語学と記述研究の相性よりは良いように思います。

私の周りにいる記述研究をしている人の中で,類型論もしている人と,比較言語学もしている人との数を比べたら,多分前者の方が多いように思います。この点についての正確な数字があるわけでもないですが,ともかく,比較言語学的研究と記述研究を国内で同時にやっている人は,近年こそ何人かいらっしゃるように思われるものの,それでも多くはないように思います。また,自らもフィールドに出ながら比較研究を進めている人は複数人いらっしゃいますが,そのほとんどが,琉球列島の諸言語・諸方言を対象としている人だろうと思います。本土諸方言の研究者で,本土諸方言を対象とした比較言語学的研究を行っている人となると,本当にごくごく一部なのでは,と思えます。

それは,何故か。

1つには,比較言語学的研究を行うには,まずはデータを集め,そこに規則的な音対応法則を見出すことが肝要で,比較言語学的研究を行う,つまり,比較方法を用いるのは,データが揃った後,すなわち,フィールド調査の後だということがあるのだろうと思います。

一方で,類型論的研究が記述研究と相性がいいのは,それがフィールド調査の現場で生きるものだから,というのがあるように思います。上述の通り,類型論的な知識に基づいて,どのような現象がどのように見られるかを予測し,それに基づいて,調査項目をその場で検討し,調査を行う,ということがあり得ます。記述言語学に取り組む人が,比較言語学を本格的には学ばなくとも,類型論的研究に多く親しむことがある,というのも,よく分かります。

しかし,本当に比較研究あるいは比較方法は,記述の現場で,役に立つことはないのでしょうか?

比較方法は記述の現場で活かせる「理論」

私は,比較方法は記述の現場で活かせる「理論」,もっと言えば,記述の現場で活かさなければいけない「理論」だと思っています。

私は,調査の場においては,1つの語形を調査するのにも,近隣の他方言あるいは祖語との対応関係を常にイメージしつつ,その対応関係からどのような形式が現れるかを予測し,その予測される形式とは異なる形式が現れないかに注意を払った上で,現れた形式が対応関係から予測される形式と異なる場合には,他方言との対応関係から予測される形式が本当に用いられないかどうかを確認し,また,予測される形式とは異なる形式が現れたのは何故なのかを突き詰める必要がある,と考えています。この「近隣の他方言あるいは祖語との対応関係を常にイメージ」する,というのが,比較言語学的な考えであり,比較方法をフィールド調査に導入するやり方の1つなのだと思います。

もちろん,変な先入観は無しにして,話者が発した語形をそのまま信じ,現れた形式をありのままに記述すべきであるという立場もあるでしょう。無理矢理に「古い」形式を思い出させる必要はなく,今使われている形式をもとに記述をすべきだという立場もあるでしょう。

しかし,仮に,「比較方法」をフィールドに導入した結果,いくつかの単語について,現在よく使われる形式a, b, cとともに,現在では古い形式と認識されていて,ひと世代前の形式と思しき形式A, B, Cが得られたとします。そして,a, b, cにのみ基づいて,当該言語の音の体系を記述した場合には幾らかの不規則性や例外を認めねばならない一方,それらに代わってA, B, Cに基づき記述すると,不規則性や例外のより少ない体系が描けた,とするならば,それは「比較方法」をフィールドに導入する意味がある,ということを意味しないでしょうか。

あるいは,「比較方法」をフィールドに導入し,他方言との対応関係を頭に入れて聞き取りを行っていた結果,話者は区別していながらも,非常に微細で聞き取りが容易ではない音調の違いなどに気づくことができる,ということもあり得ます。このことは,服部四郎も指摘をしており,自身の奄美大島名瀬方言のアクセントに関する研究を例に,その点について論じています(服部 1959)。

このように,比較方法は,記述の現場で活かすことができる,あるいは,活かすべき「理論」であって,それは共時的な記述にもプラスになることがあるのだと,私は考えます。

服部四郎(1959)『日本語の系統』東京:岩波書店.
服部四郎(2018)『日本祖語の再建』(上野善道補注) 東京:岩波書店.