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短編映画を考える時、ボツにするアイデアが山のように浮かんでくる。

やはり私のnoteは短編映画について書くと、より多くの人に興味を持たれて読まれることが多いみたいです。いくら城が好きな寿司屋が城のことを一生懸命に書いても城の専門家には敵いません。「もっと寿司について書け!」と言われてしまいます。私もプロフィール詐欺で短編映画についてばかり書いてないので、たまにはこうして短編映画についてのnoteを書こうと思うのです。

私は短編映画の構想を練る時にはいつも歩いています。机の前でウンウンと唸っているよりも、その時間歩いていた方が運動にもなって一石二鳥でもあるんですが、私の場合はむしろ歩いてないとアイデアが降りてこないので歩いてるんです。

机の前にいる時は、1m×1mぐらいの真っ白な平面のデスクトップみたいなものが頭の中にあるんですが、歩いている時は無限に広い空間に三次元的に情報が置けるイメージになります。私の仮説ですが、運動をすることで脳に送られる酸素が増え、その様に拡張されるんじゃないかと思ってます。

そんな私の脳の仕様はいいとして、ウォーキングすると少なくとも1つか2つのアイデアが閃きます。閃くと言うとポジティブに聞こえますが、平凡なアイデアやどうしようもないアイデアもたくさん閃きます。まあ、そういう時は閃くと言わずに、思いつくって言えばいいんですけどね。

私は毎日のようにウォーキングをしていますが、脳を短編映画に使うこともありますし仕事に使うこともあります。そして、短編映画に使っている時には全く何も閃かないことはありません。必ず何かしらが降りてきます。でも「行けるかも!」と思える閃きは、300個に1個ぐらいです。私のフィルターは割と厳し目のフィルターなので、全然通過出来ないんです。

一番最初に通る目の粗いフィルターは「そこに驚きはあるか?」というフィルターです。短編映画に限らずに全ての「確信犯」として作られた表現は驚きがあるように作られています。確信犯として作られた表現というのは「売れたい」だったり「ヒットしたい」だったり「賞を取りたい」だったり「評価されたい」だったりという、そういう欲望を伴った表現のことです。陶芸教室に通っていたらいつの間にか完成していた湯呑ではありません。

そして「閃き」というのは、大体驚きを含んでいます。それは表現を考える前提として「驚きのある表現は何だろう?」と思って考えているからです。三幕構成だったり起承転結があれば何らかの驚きは生まれます。短編映画みたいな短い尺でも、フリがあってオチがあれば驚きは表現できます。

私はさらに独自の驚きの基準がありまして、例えば「最初から最後まで何も変わらない」も驚きに含みます。これを言われるとさっきまで話していたことの前提が崩れるので混乱するかも知れませんが、ドラマとしての驚きとアートとしての驚きは別だと思っています。

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