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モジモジしてたら死ぬ

私たちの仕事はロケハンや撮影に行くことが多く、移動は自動車に乗って行くことが多いです。ロケバスやハイエースや軽自動車などなど。

運転するのはだいたい車両の会社の方だったりします。車両の会社の方はだいたい安全運転なのですが、たまに危ない運転をする人に当たってしまうことがあります。高速道路の追い越し車線を、時速130〜150キロぐらいでブッ飛ばす人がいたりします。

ブッ飛ばす理由は、運転手さんの性格からで無い事も多く、代理店やプロデューサーや監督の、次の打ち合わせに間に合わせるためとか、やむを得ない理由だったりもします。

たまに車体がバラバラに崩壊してしまうんじゃないかと思う時すらあります。10年ぐらい前ですが、追い越し車線を時速150キロぐらいでブッ飛ばしていたハイエースの運転手が一瞬睡魔に襲われ、右側のタイヤが路肩に接触し、ハイエースがジャンプしたことがあります。

それに近いことを何度も経験していますが、今のところ私は生きています。

でも、死んでた可能性だってあります。

ハイエースがジャンプする前、異常なスピードで怖くなったのですが、私はモジモジしてスピードを落としてもらうように言えませんでした。同乗していた代理店の方の打ち合わせ時間に間に合わせる必要もあるし、このスピードはやむを得ない事だと自分に言い聞かせたりしました。子どもが産まればばかりの頃でしたが、死ぬ時はこうやって死んでいくんだな、とすら思いました。

スピードを落とすように言えない一番のハードルは、大げさだとか、心配性とか、怖がりとか、迷惑とか、そんな風に思われることでした。仮に勇気を出して言ったとしても、「大丈夫です」と一度言われてしまったら、もう何も言えなくなると思います。運転しているのは「プロ」ですから。

世の中にはこんな現象がものすごい数で起きていると思います。そして多くの人は、大げさとか心配性とか迷惑とか言われるのが嫌で、声を上げること無く過ごし、結果的に何事もなかったように生きていると思います。でも、何万分か一の人は、それを言えなかったために命を落としている可能性もあります。

心配性と言われるリスクと、死ぬリスクは、比べるのがバカらしいほどの差があるのですが、ほとんどの事は奇跡的になのか、なんなのか、何事もなく通り過ぎていくので、心配性と言われるリスクの方を優先してしまう気がするんです。何度となく「奇跡的に助かって」来てますから。だから、まさにその時、声を上げられないんです。今回も大丈夫だろうと。

特に若者がクルマの死亡事故を起こす要因として、この心理状態が与える影響は大きいと思います。若い時ほど、自分を大きく見せたがりますし、強さこそ正義だったりしますので。若い時に「ちょっと怖いからスピードを落として」など、とても言えない気がします。特に男ですね。

私は子どもが小さい時に、少しでも危ない場所に行った時は、ずっと子どもの手を握ってました。万が一のことがあったら死ぬと思ったからです。でもしばしば「心配性」とも言われました。心配性と言われましたが、子どもの命を失いたくなかったので、子どもの手は離しませんでした。伸び伸びと育てている親の方が、いかにも心が広く寛大な親に見えるんですけどね。「子どもは本能でわかってるから大丈夫」みたいに言いながら。

私も中年になってからは、モジモジする事もあまりなくなり、死ぬ危険を感じる時はちゃんと言うようになりました。いや、これは当たり前のことなんですけど。

行動を起こした時に起きる「人間関係の摩擦」は、すごく気になりますが、ちゃんと言う勇気を持っていけたらいいなと思います。こういう事は普段の生活の中に本当にたくさんあります。そこでひとこと言えたら助かった命が本当にたくさんあると思います。自分の命も他人の命も。

私がやっている映像の監督の仕事でも、人を殺してしまう可能性はあります。「監督がやると言ったらやる」という空気がどこかにあります。「作品のため」という言葉は本当に恐ろしい言葉です。監督の責任と言わず、スタッフを死ぬまでこき使えますから。そうやって人を死ぬまでこき使って、たくさんの素晴らしい作品が産まれてきたかもしれませんが、もしかしたらそれは、兵士を人として扱わない「戦争」に勝って喜んでいるだけかもしれません。

今後、私が「作品のため」と言ってスタッフをこき使い出したら、どうか皆様、このnoteを私に見せてください。


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