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作りたいように作ればいいのに

映画でも何でも作りたいように作ればいいと思いますが、それをやるのがなかなか難しいんですよね。それはお金とか時間とか、そういう要素もあるんですが、一番大きいのは自分自身なんだと思います。

私はいつも同じ様な感覚になってつまずくんです。今回のnoteは感覚の話なので、ちょっと伝わりづらいかも知れませんが、構わず書いていきます。

私が一番つまずくのは、脚本を書く時です。構成がなかなか上手く行かないとか、アイデアが思い浮かばないとか、そういう事とは別に、何かに強迫されている感覚になる時があるんです。「これは脚本なんだろうか?」という強迫ですね。私はしばしばこの感覚に陥ります。

「これは脚本なんだろうか?」という強迫は、どこかに自分の知らない脚本の真実があって、そこに照らし合わせると間違っているのかも知れない、こんな脚本では映画にならないかも知れない、こんな脚本では人の心が動かないかも知れない、みたいな強迫です。

「正解とは何か?」を考えていて、しかも、どこかに正解があると思っている精神状態です。そういう感覚になっている時は本当にダメです。自分の作りたいものを作ってるんじゃなくて、存在しないかも知れない正解を追い求めているだけなんです。そこに対して一生懸命に考えているんです。「これは正解に近づけているんだろうか?」と。

そうなってしまった時は、考えている事自体がすごく苦痛です。変な言い方ですが、誰かに怒られないものを作ろうとしているんです。とは言え、それは具体的にプロデューサーに怒られるとか観客に怒られるとか、そういうリアリティのある感覚ではなく、映画の神みたいなものに怒られる感覚です。神というか真理というか。

なんと言いますか、自分のまったく知らない宗教施設に来てしまったとして、ここでの礼儀とは何なのか?絶対にしてはいけない事は何なのか?そんな感じに近い感覚なのかも知れません。そして、間違ったことをしてしまった時に、どれだけの罰を受けるのか、どれだけ失礼なことなのか、みたいな不安も同時に持っているんです。

宗教施設に例えたことで、自分の抱えている問題がちょっと見えたんですが、たぶん脚本を書くことに自信が無いからなんでしょうね。恐る恐る書いているんです。恐る恐る書いているから、「これで合ってるかな?」と思っちゃうんだと思います。正解があると思っちゃうんだと思います。

私は小学校や中学校の時に書かされる読書感想文でも同じ感覚を持っていました。その時も、大人が求めている正解があると思って書いていました。「大人が求めているものを書くのがこの宿題なんだ。」と思っているから苦痛でしょうがないんです。夏休みの日記にしても、文章には正解があると思っていたので、本当に苦痛でした。

8月31日に夏休みの全部の日記を書いたこともありました。全部の日の日記に「今日も普通でした。」と書いていました。ただ文字で埋めるためだけに書いた文章ですね。何の感情も無いし、どうでもいいと思ってたんだと思います。

それが高校生のある時、小論文を書くことになったんですが、まるで喧嘩を売るように文章を書いたことがあったんです。小論文だかなんだか知らないけど、バカみたいなつまらない課題出してんじゃねえよ。という気分で、上から目線で自分の思っていることを思いっきり書きました。

そういう文章を書いた時、「そういうことか」と思ったんです。自分の言いたいことを書けば、ものすごく面白いし、どんどん書けるんです。オマケに小論文の点数も良かったんです。

それ以降、文章を書くことが面白いと思うようになりました。求められている正解なんか無いことも分かりました。ずっと自分自身で、自分にカセをはめて、存在しない正解を求めていたんだと思います。

なので、こういうnoteなんかの文章は、熟考することなくスラスラ書けます。喋っているのと同じ感じで書いてますので。編集者にチェックされる訳でもなく、文章が下手だと罵倒されることもなく、前提としてアマチュアの意識もあるからなんだと思いますけど。

一方で脚本は、「失敗してはいけない。」と思っちゃってるんでしょうね。そして、私は脚本の本をいっぱい買って読んでますから、脚本術には真理があると強く思ってしまっているところもあります。特に海外の翻訳モノは、こうあるべきという断言口調で書いてあるので、揺るぎない法則がある感じがしてしまうんです。いや、私の勉強不足で、本当に揺るぎない法則があるのかも知れませんけどね。

先日、撮影するあてもない脚本を書いていた時に、正解を求めている感覚になりました。これは正しい脚本なんだろうかと。途中までは楽しかったんですが、どんどん苦痛になっていきました。中学校の時の読書感想文の感覚に陥りました。もうそうなるとダメですね。かなり深く考えて書いていたんですけど、こんな脚本が完成しても撮影すらしたくないと思いました。

作りたいように作るって、よっぽど意識的にやらないと、存在しない正解の引力に引っ張られてしまいます。

あ、ちょっと思ったんですけど、英語のスペルや文法を気にしすぎて喋れない感覚にも近いのかも知れません。

基本が大事なのは間違いないんですけど、「基本が大事」を大事にしすぎちゃってるんですかね。基本がなってないとカッコ悪いという美意識もありますし。この圧を開放してあげれば、もっといろんなことから自由になれるのかも知れません。

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