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なぜnoteを始めたのか

noteを始めた人の多くが書く記事「なぜnoteを始めたのか」

なぜ「なぜnoteを始めたのか」を書くのかと言うと、恥ずかしいからなんだと思います。言い訳をしたいからなんだと思います。「自分を変えたい」と思って始めた行動は照れくさいんですね。金髪にしたとか、外車を買ったとか、英会話教室に通い始めた理由を聞かれても「自分を変えたかったから」とは言いにくいものです。そもそも、「自分を変えたい」を見られるのが恥ずかしいんです。

私は以前、長文のブログを書いていました。まさに海外の映画祭にはまっていた30代の頃で、海外の映画祭に行った旅行記や、映画祭で生き残る方法みたいな事を書いていました。10年ぐらい前の事で、まだまだ発信に対して、おおらかな時代だったと思います。

その後、Twitterをやり始め、どうでも良い戯言を書くようになりました。私は仕事の臭いのするFacebookはちょっと苦手で、Twitterが好きなんです。その理由は、言いっぱなしに出来るからです。まさに「つぶやける」からです。

でも、2011年の震災を契機にTwitterの中でもいろんな対立が生まれました。たぶん原発事故に対する考え方が引き金だったんじゃないかと思います。「自分と違う考えの人は死んでほしい」みたいな事を書く人もたくさんいました。ネットで考えを発信すると面倒くさいことに巻き込まれると思って、ブログを書くのもやめました。それからはTwitterでは、どうでもいい自分の事しか書かない様にしました。

そうこうしているうちに長文の文章が書けなくなっていることに気が付きました。Twitterの140文字に適応しすぎたからです。ある程度はしょっても伝えたいことが伝わる様にもなりました。「いぬのウンコ」と「靴」という文字があることで、「踏んだ」が連想されるみたいな感じでしょうか。どんどん、俳句を作る様な思考回路になっていきました。でもその「140文字文法」というのは、140文字文法に慣れている人にしか伝わらないんじゃないかとも思いました。

そのリハビリも兼ねてnoteを始めましたが、大きな理由は「発信しないリスク」を感じたからです。もちろん発信するリスクは大きいですが、その発信するリスクの多くを占めるのは、「面倒くさい人に絡まれる」なんだと思います。あとは自分の内面の問題で「偉そうに思われたくない」とか「調子に乗っていると思われたくない」とか「あの人に読まれたら恥ずかしい」とか「自分の考えにまったく自信がない」みたいな事でしょうか。

でも、去年長編映画を作った後に吹っ切れました。人に嫌われてもいいから自分のやりたいようにやって行こうと思いました。たぶん、人にどう観られてもいいと思える自分の作りたい作品を作る事が出来たからだと思います。

とにかく、もう良い人でいるのはやめようと思いました。「イヤです」「やりません」「無理です」をハッキリ言っていこうとも思いました。幸いにも、環境には恵まれてるので、あんまり言うタイミングも無いんですけど。そういう思考回路になったことで、長文が書けるんじゃないかと思ったんです。

「自分を棚に上げて臆せず書く」が出来るんじゃなかろうかと。それによって「自分を変えられる」んじゃないかと。

「発信しないリスク」に話を戻しますと、何となく発信している人たちが集まって、大きなチカラを持ち始めている気がしています。「発信する人」と「発信しない人」の差が広がって来ている気もします。「発信する人たち連合」が、世の中を動かし、面白くておいしい事をやっている様に見えます。

私はもともと発信するのが苦手ではなく好きな方なので、だったら本気でやってみようと思いました。面倒くさい人に絡まれてもいいし、「自分を棚に上げてオマエごときがよく言うよ」と思われても、もういいんです。

これがnoteを始めた理由です。


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