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人と違う作品を作る、ということ。

人と違う作品を作る、という事に関して書いてみます。この、人と違う作品を作る、に関しては本当にたくさん思う事があり、一回では書ききれないので、今後も事あるごとに書いて行く事になるかと思います。

私は今まで20本の短編映画と1本の長編映画を作ってきましたが、常に意識しているのは「人と違う作品を作る」という事でした。幸か不幸か、映画というものに対しての思い入れが弱った事が、そういう思考にさせたのかもしれません。させたというか、結果的にそうなったと言いますか。「映画っぽい作品」に対しての憧れが全くなかったんです。

映画に対しての思い入れが無いので、もちろんシネフィルでもありません。だから、映画が好きで好きでしょうがない人とは、ちょっと距離を置きたくなります。シネフィルじゃない事がバレたら軽蔑される気がするからです。

私は学生時代にはグラフィックデザインを勉強しました。最初に就職した会社もライトパブリシテイという老舗の広告デザインの会社でした。元々は現代美術やデザインが大好きでした。そこからいろんな人との出会いを経て、映像を作る立場に流れ着いたんです。幸いにも。

私が「作品」と呼べるものを作ったのは、30歳ぐらいの時でした。20代後半からは映像の演出家としてCMなどの仕事を始めていましたが、作品は作ってませんでした。作品とは何かと言うと、作家として全責任を取れるものを作品と言うんだと思います。CMの仕事を作品と呼ぶ人もいますが、あれは絶対に作品ではありません。仕事です。

30歳ぐらいの時に『Penis』という作品を作りました。完全に一人だけで作った初めての作品です。30歳で初めて作品を作るのは、すごく遅く思われるかと思います。PFFの監督たちは20代前半だったりするので。その『Penis』という作品が京都造形芸術大学が主催してたコンペで大賞をもらいました。次に作った『TEXTISM』という作品もイメージフォーラムフェスティバルで大賞をもらいました。その当時は自分の才能によって勝ち取ったぐらいにしか思ってませんでしたが、今になるとすごくよくわかります。「人と違う作品」を作っていたから賞をもらえたんだと。

後に評論家のトニーレインズさんは『Penis』という作品について、こう言ってます。

「このような作品は一切他で観たことがないので引用ではないと思うので、果たしてあの作品がどんな起源から出てきたのか見当もつかないのですが、彼は自分のためにオリジナルなものを創作したのだと思います。こういう監督は多くはありませんが、存在します。」

私は死に物狂いでオリジナリティを追求していたわけではなく、偶然にも人と違う作品を作る事が出来て評価を得ました。偶然に、と言うのは、世の中にある映像表現を調べ上げ、まだ誰もやっていない表現を作り上げた、というのではなく、たまたま作った作品の作風が、まだ誰も作っていなかったという偶然だったからです。

でも私はその結果から学びました。人と違う作品を作らないと、自分の作品の居場所は無いという事を。逆に言えば、人と違う作品を作れば、自分の居場所が確保できるんじゃないかと。それからは常に人と違う作品を作ろうと意識して作りました。

すごく難しいのが、人と違う作品というのは、誰にも理解できない訳の分からない作品では無い、というところです。独りよがりでメチャクチャな作品を作れば、人と違う作品になる様な気がすると思いますが、世界には「独りよがりでメチャクチャな作品界」というものがあって、そこにスポッと収まってしまうんです。皮肉にもそのメチャクチャさからは、「同じ臭い」がするんです。

人と違う作品、と言うけれども、根底というか骨の部分には普遍性が必要です。世界中の誰が見ても理解できるレベルの普遍性です。その普遍性を表現として表に出そうが、メタファーとして裏に隠そうが、どっちでも良いと思いますが、その普遍性を骨にしておいて、そこに肉付けしていく「肉」を人と違うものにする必要があるんです。

私がいくつもの短編映画を作って学んだ事として、「物語はシンプルに。表現は複雑に。」というのがあります。人と違う世界を追求して行くと、物語まで複雑にしてしまいがちなのですが、物語を複雑にすると絶対に失敗します。人は物語をとっかかりにして映像を見続けるからです。物語を理解しつつ、見た事のない表現に驚くのです。聞いた事のない物語では、驚く事もないのです。ここに気付いたのは本当に発見でした。

さきほど「普遍性を骨にしておいて、そこに肉付けしていく。」と書きましたが、実際の思考過程としては逆から作って行きます。見た目のイメージから考えます。どんな人が、どこで、何をしている、みたいな事から考えます。作品を見た人が最初に驚くのは、その見た目のシーンだからです。シーンを考えるこの過程がすごく重要で、こここそが、人と違った作品を作る核心になります。

ストーリーを作ってからでは、ストーリーという枠があるので、本当に自由な状態でシーンを考える事は出来ません。それは本当にもったいない事です。ストーリーさえなければ、いくらでも人と違った世界を発見できるからです。

私はよく思うのですが、日本人は文学の延長線上に映画という総合芸術があると位置づけている気がします。しかし、海外の作品の中には、絵画や彫刻の延長線上にある様な映画がたくさん存在します。私は確実に絵画や彫刻の延長線上にある映画の作り方をしています。そういう作り方をしているので、海外で評価を得る事が多いのかもしれません。逆に言うと、そういう作り方をしているので、日本での評価は高くありません。文学の臭いがしないからかと思います。

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