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自分の日常をどう認知するか

自分の日常をどう認知するかによって、考え方や行動が変わり、人生も変わる気がしています。

藪から棒にすみません。

私はしばしば、自分の日常に対する認知の仕方に不満があります。ちょっとややこしい言い方ですね。私が「日常とはこうである。世の中とはこうである。人生とはこうである。」と認知している内容や質に不満があるのです。

例えば、私は日々、忙しい忙しいと言って仕事をしています。実際に忙しい部類の人間だとは思いますが、自分の人生に与えられた時間と、その中に存在する「忙しい」の割合に対する、私の認知に仕方に少し偏ったものを感じたりするんです。

もっと分かりやすく言いますと、私は「日々、こんなに忙しいんだから、それをクリアするので精一杯。そしてそれで良い。」という風に、自分の日常や人生を認知しているのです。

そして、それはもしかしたら、単なる「思い込み」なんじゃないかとも思うわけです。「思い込み」と書くと、その思い込みをやめれば良いような気がしますが、思い込みよりも強固な、深層心理での認知な気がするんです。

深層心理での認知というのは、自分の意識も無意識も含めて、絶対的に圧倒的に、「それが事実。それが真実。それが当たり前。」と認知している状態です。

下手したら何十年もそんな風に考える思考の習慣を繰り返してきているので、それを簡単に変えるのは難しいのかも知れません。最初はただの草むらだったのが、獣が何十回、何百回、何千回と通るうちに道になり、そのうちに人間が通るようになって、いまではアスファルトで舗装すらされている程の、もう変えようが無い状態になってしまっていると言いますか。

でも私は、そのアスファルトで舗装された道に不満があるんです。もしかしたら、このアスファルトで舗装された道のアスファルトを全部剥がして、元の草むらに戻して、別の道を作った方がいいんじゃないかと。

毎日、忙しい忙しいと言って過ごしている人生がある一方で、いつか叶うかも知れないと思っているファンタジーのような人生があるんです。

例えば、朝、静かな森の中に建っている家で目覚め、家の周りには野生動物がいっぱいいます。私はゆっくりコーヒーを淹れて、たたみ一畳ぐらいの机の前に座り、映画の脚本について考えるのです。窓からは木漏れ日が入ってきます。午後、散歩に行くと近くに湖があり、ボーッと湖の水面を見つめるのです。そのうちにウトウトしてきて…、いや、もうこれ以上書いても無駄ですね。

これは比喩ではありますし、そこまでの理想郷みたいな人生であるべきとは思いませんが、いま私が認知している自分の人生は、そんな人生からあまりにも遠いのです。

これは夢が叶っていないという事ではありません。自分の認知にがんじがらめになって、視野が狭くなり、そんな世界が自分の人生の中に存在する、あるいは存在出来るとすら思ってないのです。

確認ですが、今現在の自分の人生は、誰かに強制されたものではありません。自分で判断し、自分で選び取り、心地の良い方に流れてきた結果です。その結果、自分の理想とする状態になっていれば問題はありません。でも、自分で判断し、自分で選び取り、心地の良い方に流れてきた結果かも知れませんが、そこに歪みを感じるんです。

真っ直ぐ立っているつもりが、背骨が歪んで、左右の肩の位置がズレているかのように、自分は自分の人生にとっての最適解を選んできたと思っているのに、実はかなり歪んでいる可能性があるんです。それも、しっかりと歪んでるんです。ガッチガチに歪んでるんです。

とは言え、さっき書いたような湖の畔での生活までは求めません。ちょっとした認知の歪みを直したいのです。

自分が自分仕様の認知をしているんだなと最も分かるのが、時計を見た時です。特に針が付いた時計ですね。ビジュアルで刷り込まれているので、かなり感覚的な刷り込みが終わってるんです。

例えば、朝7時の時計を見た時に、「今日も一日可能性は無限大。」などとは思いません。10時の打ち合わせまでに、宿題になっているコンテを描こうと思います。午後1時の時計を見た時には、夕方5時までコンテを描いたり、企画をやろうと思います。午後5時の時計を見た時には、夕ご飯を作って食後に少しだけ仕事をしようと思います。夜10時の時計を見た時には、明日の予定を確認して何時間寝られるのかなどと考えます。

こうやって1日が終わります。時計を見ることで条件反射的に、自分が認知している人生を過ごすのです。そこに新しい何かが入る余地はありません。忙しいから新しい何かが入らないのではなく、新しいものが入る余地があるなどと、自分の人生を認知してないからです。

私は来年50歳になります。50歳という字面は強烈ですね。何を今さら人生について考えてるのかとすら思います。でも、ここからもっと良い人生にしたいと思うんです。そのためには、自分の人生に対する認知をちょっと変えなければならないと思ったんです。

青臭い事言ってすみません。いや、青臭くはないですね。茶色臭い、灰色臭い、銀色臭いと言った方がいいのかも知れませんが。

ここのところ、「なぜ出来ていないのか?」と思うことが増えてきたんです。「なぜ毎年チャンスを逃しているのか?」と思うんです。それは忙しいからチャンスを逃してるんじゃなくて、私が自分の人生に対する認知の歪みに気づいてなかったからだと思ったんです。

自分の認知の歪みについては、日常や人生に対してだけではありません。さらに大きな問題として、思考のクセについても思うところがあります。それについてはまた思うところを書きたいと思います。

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