見出し画像

自分のスタイルを貫くのは怖い

私の作品は「難しくてよく分からない」とよく言われます。ずっと言われ続けてきたので、憤慨することも無いですし、悲しい気持ちにもなりません。自分でもよく分からずに難しく作っているのではなく、こうしたらカッコいいなとか、こうしたらストイックになるなとか、自分の狙い通りに作れているからです。

私の作品が難しいと言われてしまう原因は大体分かっています。読書感想文を写真で出しちゃう感じなんだろうと思います。取扱説明書を開いたら模様が描かれていた感じとでも言いますか。「説明してくれないと分からない」ということですね。

アウトプットでズラししているのに、さらに説明が無いから掴むところが無く、どうやって見たらいいのか分からないと思います。文字通り「掴みどころが無い」作品なんだろうと思います。

でも、それは理屈で作っているというよりも、感覚的な部分が大きいです。レイアウトみたいな感覚が近い気がします。ストーリーテリングではなく、デザインみたいな感覚なのかも知れません。

でもそういう作品が好きなんですよね。淡々と何も起こらないんだけど、そこでそのシーンが入る理由もよく分からない、みたいな作品が。カッコいいと思っちゃうんです。

私は映画を作るより前は、現代美術がすごく好きだったので、現代美術が持っている高尚であり変態であり哲学である、みたいな世界観が好きなんです。だから映画監督よりも、マシュー・バーニーみたいな現代美術ベースの映像作家の事をカッコいいと思ってます。感動する作品じゃなくて、カッコいい作品が好きなんでしょうね。

私は自分の作品を作るようになって、意識的に感動と物語を入れていますが、どちらかというと感動と物語は入れたくないんです。でも、感動や物語を入れないと映画の仲間入りが出来ないんです。感動や物語を入れずに、ストイックに作品を作ると実験映画にカテゴライズされてしまいます。

実験映画界は世界的にもシッカリあるんですが、どちらかというとアートの中の映像カテゴリーに入ってしまいます。「マシュー・バーニーが好きなんだったら、それがいいのでは?」と思われるかも知れませんが、やっぱり私にとって映画ってすごく魅力的な世界でもあるんです。

いや、もちろん自分の作品を美術館なんかで上映出来たら、すごく嬉しいですよ。アートには憧れがありますから。親友の石田徹也くんが、アートの世界で割とすごいところに行ってしまったのを、目の当たりにしてしまっているので、とてもじゃないけど自分はそこには行けないとも思ってしまっています。

そんは私は、映画のカテゴリーの中で作品を作っていますが、自分のスタイルを貫くのは怖いなと思うこともあります。一番大きいのは、自分のスタイルを貫き続けると、「よく分からない」と言われ続けることになるからです。もちろん、意思を持って作っているんだから、誰から何を言われようが思われようが関係ないと言い切ってしまうことも出来ますが、私は「死後に自分の作品が評価されればいい。」みたいな心境にまでは到達出来ていません。

やっぱり、いま作っている自分の作品をきっかけに、いま生きている人たちとコミュニケーションを取って、自分の人生を充実させてくれるものにしたいからです。

だから、作品を作るたびに「今度こそ分かりやす作品を作ろう!」と、最初の頃は思うんです。「いいかげん分かりやすい作品を作らないと、訳の分からない作品を作る人と思われちゃうぞ。」とも思うんです。もう手遅れなんでしょうけどね。ハッハッハ。

そうそう。「平林さんて、商業映画とか劇場公開されるような映画を作りたいと思ってないですよね?って、映画業界の人が言ってましたよ。」と教えてもらったことがありました。やっぱりそう思われているのかと思うのと同時に、作っている作品を見たらそう思われるよなと、強く納得もしました。

実は、5年ぐらい前から、ストーリーがしっかりある、家族の物語の映画を作りたいと思っていました。こそこそと脚本も書いていますが、もしそれを 作ったら、今までの私のスタイルとは大きく違う作品になるんだと思ってもいました。でも、2019年に初めて作った長編映画『SHELL and JOINT』は、結果的に今までのスタイルを貫いて作ったカタチになりました。好き勝手に作らせてもらったら、自分のスタイルを貫いてる感じが出ちゃった感じですね。

ちょっとこの辺で確認のために言っておきたいんですけど、「自分のスタイルを貫く」というのは、私はそんなに好きじゃないんです。ちょっとカッコ悪くさえ思ってます。好き勝手に作ってるから、結果としてスタイルが出来ちゃったというのが正しいです。

話を元に戻しますと、私は「自分のスタイルを貫いてる感」が出ちゃっているんです。作品として発表しているものは、どれも自分では誇らしい作品なんですが、「アレも出来るしコレも出来る監督」みたいな印象は全然無いので、汎用性が無い感じがするんですよね。自分で言うのもアレですけど。

かと思ったら、しまじろうの映画を作ってたりして、「その中間!中間!」と思われているに違いありません。事実、その中間の作品が無いんです。だから、「程よい感じの作品を作れますよ」という証明が出来てないんです。

証明をしたいがために、中間の作品を作りたい訳じゃないんですけど、もう少し社会と接点の多い作品が作れたら楽しいんだろうな、と思ってます。

自分の好きな世界観が、世の中のど真ん中に刺さる人が羨ましくもあります。そういう人は、好き勝手に作っても世の中のど真ん中に刺さっちゃいますから。

写真は『Heaven』という短編映画のワンシーンです。これを映画と言っている人に、学園恋愛ラブコメのオファーは来ないですよね。

こちらが本篇になります。本篇って!


サポートして頂けたら、更新頻度が上がる気がしておりますが、読んで頂けるだけで嬉しいです!