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『SHELL and JOINT』のレビュー①

P-J Van Haeckeさんという方が、ロッテルダム国際映画祭で『SHELL and JOINT』を観たレビューを書いてくれました。かなり長文の英語の記事だったので、『SHELL and JOINT』にも出演されている曽根瑞穂さんに和訳をお願いしました。曽根さん!これは本当に大変だったと思います。ありがとうございました!

しかしこのレビュー、凄いです。確実にマニア向けです。映画を観てからじゃないと、何がなんだか分からないとも思いますが、このレビューを読んで興味を持って観に来て頂ける方もいるかと思いますので、出しちゃいます。

ここから和訳したレビューになります。一番下に、オリジナルの英語の記事のリンクも貼っておきます。


イントロダクション

『PENIS』(2001)、『aramaki』(2009)、『OCTOPUS』(2015)などの実験的短編映画を17年に渡って製作してきた平林勇は、ついに長編映画の製作に挑んだ。映画の構造上の従来のしきたりを無視し、生きているとは何を意味するのかということについて、型破りで実験的な探求に乗り出したのだ。

レヴュー

新渡戸(堀部圭亮)と坂本(筒井真理子)、二人は幼馴染であり、都内のカプセルホテルのフロントで働く従業員。新渡戸は哲学と人生、節足動物が好きで、坂本は自殺を繰り返している。
カプセルホテルは人々が行き交う場所である。カプセルホテルは、ミジンコを研究している学生のように、長方形のボックスの中で夜を過ごす多くの日本人を魅了するだけでなく、フィンランド人の母のような外国人にとっての隠れ家でもある。彼らの生活は決して交わることはないが、それでも彼らの主観的存在は、言語、性、死において同じ次元であるのが特徴的である。

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『SHELL and JOINT』の一番最初の部分では、時間的に長いオープニングショットに見られるように、時間の経過が強調されている。時間の経過は物語のメインテーマではないが、この印象的なショットは、時間の経過は登場人物内および登場人物間で、その後演じられるすべての背景であることを示している。すべての独白、すべての会話は、何らかの形で時間の経過と関連している。会話における話題が進化(時間の経過による種の変化)、死の現実性(時間の経過とともに死ぬ)に関係するときだけでなく、会話が性(性的生殖)と性的喜びに変わっていく時にも。
『SHELL and JOINT』の物語のメインとなる軸は、坂本と新渡戸が死と死の恐怖について話しているときにのみ登場する:存在(つまり、生きている)と非存在(つまり、死んでいる)の関係。彼らの会話の中で、坂本は彼女の生きることに対する両面性と、存在を証明することに対する拒絶を強調している。彼女の度重なる自殺未遂はこの両面性を強調しているが、これらの行為に対して主観的責任を取るのではなく、心をコントロールできるバクテリアのせいにしている。このバクテリア理論が彼女の人生を構成する繊細な妄想かどうかは明らかではないが、それにもかかわらず、この理論は彼女の「理論」が精神的問題を、単なる病気の生物学的プロセスにまで減らすという現代の傾向を反映していることは明らかである。(※Narra-note-1)

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時間の経過によって可能となった存在と非存在の関係が、『SHELL and JOINT』の主軸を形成していることはすべてのシーンで理にかなっている。町山が自慰行為をして顕微鏡下に精液を入れるとき、サウナにいる二人の男性がセックスなしで妊娠した少女の不条理な話について議論するとき、または新渡戸がうじ虫とカブトエビの性について哲学的思索に耽るとき、それぞれのシーンで存在と非存在との関係性が効果的に作用する。しかし、これらのシーンは、突飛な方法ではあるが物語に別のテーマ要素をもたらす。それは人間の性と性的関係の側面である。時間の経過の機能としての存在と非存在の違いは、性の機能としても別の段階にある。つまり、交尾行為である。(※Narra-note-2・※Narra-note-3) 『SHELL and JOINT』で度々言及される結婚と再婚の側面も人間の性のテーマと性的関係のテーマに合致している。教授と結婚することになっている実験助手のミヤマの説明が語る、彼らは脱皮を決して止めない芋虫であるという男性についての彼女の持論は、男女間の性的関係は常に問題を抱えており、いつも誤解によって特徴付けられるという滑稽な喚起に他ならない。そしてこれは、常に問題を抱えた男女間の性的関係を連想させる唯一のシーンではない。男女間の問題に直面せずに人間は存在できないことを強調する会話が繰り返し起こる側面なのである。

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また別の側面として、基本的次元は森の中の夫婦によって紹介される。元ヤクザの男が妻に死んだ後再婚するかと尋ねると、愛についての質問をするだけでなく、人間の存在と非存在は象徴と現実という二つの異なる次元で機能するという事実をも呼び起こす。彼の質問は本質であり、彼が肉体として存在しなくなったときに彼女が彼の象徴的存在をどのように扱うかを尋ねる。
存在と非存在、時間の経過、問題を抱えた性的関係、そして質の悪い非難、自殺、結婚のように人間が行う様々なことに対する平林の主張は、『SHELL and JOINT』が真に意味するもの、つまり人生のサイクルを再編成することを可能にする。象徴的存在(死の前後の言語における主題としての私たちの存在)と象徴的非存在(忘れられている状態)の人間のサイクルとしてだけでなく、本質的存在(性的喜びによって突き動かされている人間の肉体)と本質的非存在(死、肉体の緊張がゼロにまで減少した状態)(※Narra-note-4)の人間のサイクルとしても。

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しかし、平林の物語には影響を及ぼしているもう1つの人生のサイクルがある。常に言及されているのは生き物、特に人間にとって迷惑な生き物の生活のサイクルである。 人間は可能な限りいつでもこれらの生き物の本質的存在(彼らの実在)を存在及び非存在の状態に変えるということが原因となっている、暴力によって人間のサイクルと主に関連している生き物の生活のサイクルである。しかし、これらのサイクルが相互に関連していたとしても、人間は話す、という一つの要素のために根本的に分離されたままに他ならない。結局のところ平林の物語の真実は、対話は発言の時間的存在を非常に複雑にし、男女間の性的関係の自然な確立を不可能にするという事実に他ならないのである。(※Narra-note-5)
『SHELL and JOINT』の特別な点は、物語が従来の方法で語られていないということである。実のところ、平林の物語は別々の生活の一片のシーケンスをつなぎ合わせたものである。 シーケンスを結合するのは、監督が彼の物語の範囲内で答えたい生と死に関する質問である。従って、すべてのシーケンスは「視覚的な記号表現または音声による記号表現」という、監督が策定の過程にある回答の要素である。結果として、『SHELL and JOINT』は哲学的な質問に対して、物語ではなく記号表現のレヴェルで読み取られる主観的な答えを提供することを目的としているのである。

桃子

この従来とは異なるナレーションの方法と『SHELL and JOINT』の長い上映時間は一部の人にとって不快に感じることもあると思うが、『SHELL and JOINT』に本当のチャンスを与えるのは、強力な画像と説得力のあるシーケンスの連結を望んでいる人々だろう(※Narra-note-6・※Psycho-note-1)。本当にパワフルなシーンを観るには、物語の後半まで待つ必要がある。これは、それぞれ異なる方法で、存在、性、非存在に迫っているこれらのシーンが、『SHELL and JOINT』が関係しているテーマの、より深い探求を提供することが理由の一つだからである。従って、物語の前半でテーマを確立し、後半それらをさらに詳しく説明していると明言するのは間違いではないだろう。
『SHELL and JOINT』の撮影は最小限で行われている。このミニマリズムは、静止フレーミングやショットの時間的長さだけでなく、カメラが常に距離を置き、遠ざかっているためでもある。言い換えると、『SHELL and JOINT』の映画構成には、人物のクローズアップはない。平林の構図は、いくつかの例外はあるものの静的なワイドショットと極端なワイドショットの連結に過ぎない。(※Cine-note-1)映画構成の静的性質により、平林はこのように記号表現を強調することができる。『SHELL and JOINT』がテーマの統一性を獲得し、平林の個人的な答えを呼び起こすことができるのは、映画撮影上の重点を、記号表現の強調つまり独白で表現された言葉や会話でやりとりされた言葉、および記号表現として機能する映像においているからである。(※Narra-note-7)

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『Shell and Joint』の構成は、渡邊崇の丁寧な仕事により、素晴らしい音楽伴奏を伴って華やかに輝く。音楽が「物語」の展開に統合される方法は、明確なヴィジョンを持つ監督としての平林をさらけ出す。音声は、物語の空間(カプセルホテルのロビーから実験室、サウナなど)の差し迫った変化を知らせるためだけではなく、例えば物語の中の蚊の存在を気軽な感じで連想させるためにも使用される。この音楽による脚本の軽快さは、人間の手が蚊の迷惑な存在を死んだ存在に変えると、蚊の存在を強調する音がすぐに消えるというところにある。(※Sound-note-1)
『SHELL and JOINT』は、監督および脚本家としての平林の才能の真のショーケースであり、彼が明確な芸術的ヴィジョンを持っていることの証明である。視覚的に魅力的な映像と力強いシーンが溢れており、人間の存在と非存在が何であるかについて真に心に訴えかけるような探索を、平林は提供している。平林は、いくつか大真面目なもの、陽気なもの、感動的なものを含む多数の生活のシーケンスを連結することにより、言語により私たちの存在は死を超えた存続が可能であるという事実と共に、私たちの肉体的存在の中で言語が他の性との性的関係を問題化するという事実を観客に示すことに成功した。

注釈

※Narra-note-1:坂本の理論は、自殺行為における主観的要素を回避することに加え、社会的構成要素すなわち社会の構造そのものが人々を精神病にしたり自殺を促したりする役割を果たすことも回避している。
※Narra-note-2:時間の経過は人生の始まりと人生の終わりを表すが、時間の経過の中で把握される交尾行為は、非存在を存在に変えることしかできない。
※Narra-note-3:さりげなく言及されているもう一つのテーマは、女性に対して性的無関係になるという男性の恐怖心、生殖、つまり新しい生命の創造に不必要であるという恐怖心である。
※Narra-note-4:死後の象徴的存在の概念(本質的非存在)は、不倫していた父の2回目の命日について娘が母親と議論するシーケンスで最も明確に探求される。
※Narra-note-5:この様子は、3匹の昆虫人形が記号表現の重要性を議論する場面(※Narra-note-6を参照)と、2人の人間が「昆虫」の性を描写する場面の並置で最も明確に描かれている。
※Narra-note-6:私たちの意見としては、最も強力なシーケンスは坂本と新渡戸の3番目と4番目の会話、男性がセミであることを話すサウナのシーケンス、姉のボーイフレンドについての2人の姉妹間の会話、そして最年少で受けた不妊治療についてである。
※Psycho-note-1:ゴキブリに対する恐怖は恐怖症ではないと坂本は言っているが、恐怖を恐怖症的症状と見なす以外に方法はない。 それは恐怖症的症状であり、物語中で明らかにされているように彼女の体を混乱させ、結果として肉体の想像上の統一を危険に陥れる。
※Psycho-note-7:ゴキブリ、ハエ、ダニ間の会話では、記号の重要性が強調されている。最初の会話では、言葉は人生とは反対のものとして紹介されていることに気づいて欲しい。 これをどうやって理解すれば良いのか?存在は現実であるだけでなく、象徴的でもあるという事実を参照することによってのみ理解できる。実在の次元、例えて言うなら肉体はもちろん常に動いているが、人間は何よりもまず象徴的な次元で人生を送る。従って、ダニが肉体の世界よりも言葉の世界を重要だと考えるのは驚くことではない。2番目の会話は、本質的非存在、死後も存続する象徴的存在を可能にする記号表現を強調している。記号表現がソーシャルネットワーク内で発言されるという事実は、ゴキブリの夢、つまりゴキブリ自体がハエとダニの心の中に生きることを可能にする。
Cine-note-1:場合によっては、キャラクターの動きは一時的にワイドショットをミディアムショットに変える。
Sound-note-1:新渡戸の場合、観客として、私たちは彼の内なる独白の外面化を通じて彼の哲学へと近づくことができる。彼の内面の独白が外面化されることにより、それは観客にとって「物語」となり主題としての彼の、繊細な探求になり得るのである。


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