火野佑亮の文化人チャンネル

奈良県在住。自称小説家。美を総合的な観点から語ることを目指し、YouTube「火野佑亮…

火野佑亮の文化人チャンネル

奈良県在住。自称小説家。美を総合的な観点から語ることを目指し、YouTube「火野佑亮の文化人チャンネル」を更新中(http://youtube.com/@ch_HinoYusuke)。

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https://www.youtube.com/live/QVYtzsoTukk?si=DzENeSdzQXLoVDeP 雑誌「最前線」に寄稿させていただいた文章と、先日お邪魔した千坂先生の勉強会について話しました。よろしくお願いします。

    • 【工事中】台本『脱輪氏の「推し活」論 「資本主義リアリズム」から「生活のアナキズム」へ』

      要点まとめ ・推し=購買行動は好きに評価を下す(批評)責任を免責する ・自由/多様性概念の運用上の失敗→不干渉の原則から不感症の怠惰へ ・暴力と加害性を引き受けることなくして他者と関わることはできない ・”ひろえもん”的コスパニヒリズムは未来の自己否定へと行き着く ・「環境管理型」権力(東浩紀)の危険性 ・「天使化」に潜む「代理満足」(フロイト)の心理 ・オタクならぬ「推し活者」の消費をめぐる強迫観念 ・twinpale(ツインペイル)『ショートケーカーズ』から読み解く代理満

      • 正直、橋川文三がシュミットを引用して保田與重郎を批判する意味がよくわからない。シュミットのようなロマン主義に対するアンビバレントは橋川には皆無。さらに言えばアンガージュマンとは一切無縁な保田が、マルクス主義から転向したというのも、彼の主張と矛盾する伝説の類にすぎないだろう。

        • 物語と生きる

          ※この文章は現在の自分の立場と厳密には異なります  後期近代、ポストモダン、呼び方はどちらでもよい。フーコーのいう「生権力」が跋扈するこの時代にあって、道徳ならぬ倫理の重要性は日ごとに増している。修身斉家治国平天下。現状を受けいれるにせよ抗うにせよ、己の律し方、目の前の人間との向き合い方を問うことなしに親密性はあり得ず、したがって虚構としての社会も成立しない。まず、昨今のポリティカル・コレクトネス現象を反面教師として、その倫理について考えてみよう(他人を観察するつもりが、そ

        • 固定された記事

        https://www.youtube.com/live/QVYtzsoTukk?si=DzENeSdzQXLoVDeP 雑誌「最前線」に寄稿させていただいた文章と、先日お邪魔した千坂先生の勉強会について話しました。よろしくお願いします。

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        • 保田與重郎のイロニーと「現実」批判

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        • 日本人にとっての「翻訳」の意味とは

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          【工事中】台本『脱輪氏の「推し活」論 「資本主義リアリズム」から「生活のアナキズム」へ』

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          要点まとめ ・推し=購買行動は好きに評価を下す(批評)責任を免責する ・自由/多様性概念の運用上の失敗→不干渉の原則から不感症の怠惰へ ・暴力と加害性を引き受けることなくして他者と関わることはできない ・”ひろえもん”的コスパニヒリズムは未来の自己否定へと行き着く ・「環境管理型」権力(東浩紀)の危険性 ・「天使化」に潜む「代理満足」(フロイト)の心理 ・オタクならぬ「推し活者」の消費をめぐる強迫観念 ・twinpale(ツインペイル)『ショートケーカーズ』から読み解く代理満

          【工事中】台本『脱輪氏の「推し活」論 「資本主義リアリズム」から「生活のアナキズム」へ』

          物語と生きる

          「松」に参加すると最後まで読めます

          ※この文章は現在の自分の立場と厳密には異なります  後期近代、ポストモダン、呼び方はどちらでもよい。フーコーのいう「生権力」が跋扈するこの時代にあって、道徳ならぬ倫理の重要性は日ごとに増している。修身斉家治国平天下。現状を受けいれるにせよ抗うにせよ、己の律し方、目の前の人間との向き合い方を問うことなしに親密性はあり得ず、したがって虚構としての社会も成立しない。まず、昨今のポリティカル・コレクトネス現象を反面教師として、その倫理について考えてみよう(他人を観察するつもりが、そ

          民俗と「常なるもの」

          「松」に参加すると最後まで読めます

           佐藤光・中澤信彦編「保守的自由主義の可能性 知性史からのアプローチ」という本を眺めていた。中川八洋の悪影響もあり昨今忘れられがちな、保守主義と自由主義の関係についても示唆に富む良書だ。  佐藤光は保守主義における時間感覚を、「回帰する時間か同時存在する時間」と表現している。「カール・マンハイムが鋭く指摘したように」と述べているが、これは「保守主義的思考」のことだ。

          創作メモ(23年11月)

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          ポストモダン人類学と「1968年」【完成】

          「松」に参加すると最後まで読めます

           これまで人類学の仕事は、例えばマルセル・モースが顕著であるように、既存の資本主義のあり方を相対化する役割を果たすものだった。「万物の黎明」が翻訳され、注目されているデヴィッド・グレーバーはアナキストの活動家だった。  さらにその文脈を掘り下げていこう。この前YouTubeの動画で紹介した、ヴィヴェイロス・デ・カストロなどのポストモダン人類学の流れはアナキズム的な性格が強く、1968年の革命の延長線上の思想として位置づけられる。  ポストモダン人類学は、レヴィ=ストロース

          ポストモダン人類学と「1968年」【完成】

          「物語の力」執筆時メモ(本文の内容は除外)

          「松」に参加すると最後まで読めます

           カール・シュミットは、プルードン・バクーニンといった反神学の思想家と、ド・メーストルをはじめとする神学の思想家という両極に関心を寄せていた。秩序を破壊する側と維持する側という違いこそあれ、細部に分け入っていくと両者は表裏一体の相貌を示すようになるだろう。「六八年革命」を経て成立している現状には、このいずれもが欠けているように感ぜられる。

          「物語の力」執筆時メモ(本文の内容は除外)

        記事

          民俗と「常なるもの」

           佐藤光・中澤信彦編「保守的自由主義の可能性 知性史からのアプローチ」という本を眺めていた。中川八洋の悪影響もあり昨今忘れられがちな、保守主義と自由主義の関係についても示唆に富む良書だ。  佐藤光は保守主義における時間感覚を、「回帰する時間か同時存在する時間」と表現している。「カール・マンハイムが鋭く指摘したように」と述べているが、これは「保守主義的思考」のことだ。

          憂鬱に見つかってはならない。自分自身が憂鬱と化してしまう。 我を忘れて夢中に駆け抜ける塊にならなくては。

          憂鬱に見つかってはならない。自分自身が憂鬱と化してしまう。 我を忘れて夢中に駆け抜ける塊にならなくては。

          今村仁司のベンヤミン解釈に対する大貫隆の言及について調べたい

           Twitterで壱村健太さんが興味深い言及をされていたので、ここにメモしておく。  壱村さん曰く、今村仁司はベンヤミン「歴史哲学テーゼ」を非神学化して解釈したのだという。その読解について、アガンベン「残りの時」邦訳に収録されている訳者の上村忠夫との対談において、大貫隆が言及しているというのだ。  雑誌「最前線」に寄稿した「物語の力」はレーニン論として十分とは言えない。それでもあの時の自分に書けた最上の文章だと思っている。期限に追い込まれてものを書く時、論じるテーマに対し

          今村仁司のベンヤミン解釈に対する大貫隆の言及について調べたい

          にゅんさんの「「通貨」とは?- 理論と言語体系」を読んで

           かねてより、不勉強な僕はMMTに対しある違和感を感じ続けていたのだけれど、にゅんさんの新しい記事を読み、これが氷解した。  「MMTは現代の経済を形而上学的に語っていやしないか?」  この疑問に対するにゅんさんの回答を一言にまとめると、MMTは括弧付きの真実を述べるパースペクティブの一つだということだ。にゅんさん曰く、これに最も自覚的なのがビル・ミッチェルなのだという。  紙幣や高貨という形で「通貨」を発行する権力主体からすれば、「独自の地域通貨」は「通貨」と見なされな

          にゅんさんの「「通貨」とは?- 理論と言語体系」を読んで

          偶像を演じるとはどういうことか。身も蓋もない言い方をすれば、騙すということだろう。 演出家は演者が観客を騙していることを熟知するべきだ。その上で観客とどう向き合うかについて、演者と意見をすり合わせることが重要だろう。

          偶像を演じるとはどういうことか。身も蓋もない言い方をすれば、騙すということだろう。 演出家は演者が観客を騙していることを熟知するべきだ。その上で観客とどう向き合うかについて、演者と意見をすり合わせることが重要だろう。

          ポストモダン人類学と「1968年」【完成】

           これまで人類学の仕事は、例えばマルセル・モースが顕著であるように、既存の資本主義のあり方を相対化する役割を果たすものだった。「万物の黎明」が翻訳され、注目されているデヴィッド・グレーバーはアナキストの活動家だった。  さらにその文脈を掘り下げていこう。この前YouTubeの動画で紹介した、ヴィヴェイロス・デ・カストロなどのポストモダン人類学の流れはアナキズム的な性格が強く、1968年の革命の延長線上の思想として位置づけられる。  ポストモダン人類学は、レヴィ=ストロース

          ポストモダン人類学と「1968年」【完成】

          「生権力」のあり方について

          Twitterに重箱の隅をつつく小煩いコメントがついたので、削除してこちらに転載します。脱輪さん通知になってしまったらごめんなさい。  この脱輪さんの意見に概ね同意する。  ハラスメントが問題であることは間違いない。難しいのはその問い方だ。いわゆる「生権力」≒「環境管理型」の権力性を恐れ神経症的に拒むが故に、より醜悪な形で自分たちが「生権力」になるという逆説。  権力は突き詰めれば、他者との関係のうちに現れる政治性・暴力性に行き着く。これとどう上手く付き合っていくか。

          「生権力」のあり方について

          人生の全てを運に還元する思考は、全てを実力に還元する思考と同程度に不毛だろう。そこから何が生まれるというのか。

          人生の全てを運に還元する思考は、全てを実力に還元する思考と同程度に不毛だろう。そこから何が生まれるというのか。

          もしも僕が「あのお方」だったら

          ※全文無料でお読み頂けます  最初、「もしも僕が南洲翁だったら」という題にする予定だった。傲岸不遜にも程がある。世が世なら右翼の方に軽く嗜められることもあるのかもしれない。ただ僕は、「お茶代」の「もしもわたしが◯◯だったら」という課題を目にした時、思わず翁のことを想起せずにはいられなかった。  なぜあの時あの状況で、立ち上がらなくてはならなかったのか。西南戦争へ至る翁の思考を完璧に説明できる人間などいないだろう。生き永らえている我々に許されているのは精々、解釈することぐら

          有料
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          もしも僕が「あのお方」だったら

          小説ではいくらでも自分を偽れるが、批評ではそうはいかない。 そこで発せられる言葉は登場人物のものではなく自分のものであり、他でもないその言葉によって自身が傷を負うことは珍しいことでも何でもない。 芸術と学術、描写と言及の違いはそこにあるのだろう。

          小説ではいくらでも自分を偽れるが、批評ではそうはいかない。 そこで発せられる言葉は登場人物のものではなく自分のものであり、他でもないその言葉によって自身が傷を負うことは珍しいことでも何でもない。 芸術と学術、描写と言及の違いはそこにあるのだろう。

          「物語の力」執筆時メモ(本文の内容は除外)

           カール・シュミットは、プルードン・バクーニンといった反神学の思想家と、ド・メーストルをはじめとする神学の思想家という両極に関心を寄せていた。秩序を破壊する側と維持する側という違いこそあれ、細部に分け入っていくと両者は表裏一体の相貌を示すようになるだろう。「六八年革命」を経て成立している現状には、このいずれもが欠けているように感ぜられる。

          「物語の力」執筆時メモ(本文の内容は除外)