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龍とそばかすの姫に見るメタバース(考察)

今更だが表題について話したい。
結論として、龍とそばかすの姫の舞台、仮想世界「U」はなにもしなくていい場所だ。
その点でMetaやCluster等ビジネスパーソンが描く世界と一線を画す。

FacebookがMetaに名前を変え、世間もメタバースについて認知が追いついてきた頃ではないだろうか。
あらゆる企業やスタートアップが新規のビジネスチャンスを探り、VC(ベンチャーキャピタル)が躍起になって投資し続けているコンテンツ。
ただ、人々の期待値とは裏腹に、僕を含めほとんどの企業人がメタバースの最適解・最適な運用方法に辿り着けていないのではないだろうか。
Metaの株価を見てもそれは明らかである。

2022.10.31時点

実際、仮想現実で行われるアクティビティってどのようなものだろう。MetaやClusterが示すようなゲームや会議、イベントを行うための空間?
僕は「龍とそばかすの姫」を見て別の可能性を思うに至った。

SFの可能性

そもそもメタバースの由来は1992年刊行のSF小説「スノウ・クラッシュ」内の仮想空間サービスからくる。
自動運転技術やタブレットコンピューターだって30年以上前のSF映画で描かれている。
僕が憧れたスタートレックのホロデッキも近い将来実現化するという。
SFには未来の可能性が描かれているのだろう。
細田守監督の前回作「サマーウォーズ」では、デバイスの画面ごしに仮想空間があった。
今作「龍とそばかすの姫」ではイヤホンを装着し、目を閉じれば仮想空間に没入することが可能となる。その手軽さから鑑みるに、仮想空間が更に日常性を帯びたものになっていることが想像できる。

なにもしなくていい場所「U」

仮想世界「U」をAs(アズ、作中のアバター)が群れになりながら宙空を漂うシーン。主人公が歌い始めるとそれを取り囲んだり、口々に感想を共有したり。
それを見た一部の視聴者からは、Asがなにもせずに漂う状態は非現実的かつ舞台装置のようだ、との意見がある。
つまり、前作のサマーウォーズや、Metaが標榜するようにあちこちであそびが発生する空間にリアルを感じ、目的もなにもなく漂うAsに違和感を覚えたのだろう。
僕は逆に、なにもしない自由がめちゃめちゃリアルだと感じた。
むしろ日常的に滞在する公園のような空間に全員が目的を持って集まらなければならないという考えが不自由なのではないか。
テレビをあてもなくザッピングしたように、SNSを無限にスワイプしたように、都市空間を心地よく人の波に従いながら練り歩くように。みんなで気持ちよく一体感を纏いながらなにもせずに漂う様子にはっきりとした未来の日常を感じた。
なにかしなくてはいけない場所ではなく、なにもしなくてもいい場所。
その心地よさや日常性の先にメタバースの最適解があるのかもしれない。

最後に

FacebookやInstagramはライフスタイルの表現(それは非日常を含む)を日常化することで、多くのユーザーを得た。
メタバースが日常と化すにはもちろんウェアラブルデバイスが発達し、装着コストが低いアクセサリーの普及が必須だろう。
そして、いかに日常を非日常化するか、非日常を日常化するか、その連続性が次世代型コミュニティに求められる課題と考える。

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