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私のご先祖様 #2 桑原信力

 今回の記事は、私の曾祖父(そうそふ:ひいおじいさん)である桑原政(くわばら まさ)(記事:私のご先祖様 #1 桑原政)の兄である桑原信力(くわばらのぶりき)という人物について書こうと思う。私の過去の記事である、日本史が好きから始まった私の先祖について、本家の伯父に貰っていた、先祖の資料を元に記事を書いていく。

私と桑原信力(くわばら のぶりき)

 信力と私の関係を家系図にした。かなり遠い存在である。家系図上は、筆者の祖父の祖父になる。

信力と私の関係図


桑原 信力(くわばらのぶりき)

 桑原力太郎(りきたろう)、桑原力(りき)、とも呼ばれる。水戸徳川家の家臣。陸軍少佐、西南戦争で戦死(熊本県田原坂の戦いにて)。妹に豊田 芙雄子(国内初保育士)、弟に桑原政(実業家、政治家)がいる。父は水戸藩の武士である、水戸藩郡奉行、桑原信毅(くわばらのぶかつ)であった。藤田東湖の甥になる。

 生年月日は不明。江戸時代(安政3年、1856)に桑原政が誕生した時には、親子ほどの年が離れていたという。生まれは、1830~40年頃だろうか。父に変わって、二人の妹とともに、桑原政を育てたという。

 元治元年(1864)3月、天狗党の乱が起った際は「鎮派」に属した。慶応元年(1865)、「激派」に属した人物は処罰され、死罪にするなどの処罰が下された。一方、鎮派の有志は慶応2年6月に藩政の現状を心配し、幕府の要路に嘆訴(たんそ、なげき訴えること)する密計を立て。しかし天狗党と対立していた門閥派に嘆願書が江戸へ向かう途中に奪われてしまった。

 そのため、信力は捕らわれて禁固となった。このとき、加藤木賞三、豊田小太郎、渡井量蔵らは水戸を脱走した。

 慶応4年/明治元年(1872)に幽閉生活より戻り実家禄に戻った(300石)。同年、函館戦争に官軍として参加。

 その後、先手物頭として、磯浜台場(現在の東京お台場付近)の護りとなり、組下若干を常時指揮することになる。これにより、軍事操練の道に向かうこととなる。

先手物頭
・先手:江戸幕府の役職名
・物頭:「弓組」や「鉄砲組」の長

 明治5年、陸軍大尉として藩兵を引率して上京する。その後、一時、越後新発田に勤務したのち、すぐに又上京した。

 明治7年ごろ、西久保に居住し、田村町(現・西新橋交差点)の陸軍分営に勤務した。当直の夜は寝具を背負い弁当箱を携え、天徳寺(東京都港区)境内から愛宕山(あたごやま、東京都港区愛宕にある丘陵)を乗り越え、営業所まで通ったという。これに関しては、随分辛い苦行だったという記録が残っている。この頃、弟の桑原政が工部大の生徒募集に応じて官費生となり、虎ノ門内の生徒間に移転された。

 明治10年2月、西南戦争に参戦する。明治天皇が畝火山(うねびやま)陵(りょう、天皇・皇后などの墓)に行幸(ぎょうこう、天皇が皇居を出て、よそへ行くこと)する際は、護衛の命を奉じて(従って)、中六番町(現在の千代田区四番町付近)の寓居(ぐうきょ、かりずまいのこと)を出発するにあたり、兄弟の別れと臨み(のぞみ)、桑原政に対して、意気軒昴(いきけんこう、おおいに元気で、盛んに奮い立つさま)に、

「弟は他日学業の成るを期せよ」

他日(いつの日か)
学業の成る(結果がまとまること)を
期せよ(期待する)

と、激励したという。

 また、このときに、桑原政は、長男の恒寿(こうじゅ)の身の上を督励(とくれい、仕事・任務を進めるため、監督して激励すること)を任されたことを、切なるものがあったと残している。

 明治10年4月10日、西南戦争に大阪鎮台歩兵第8連隊第1大隊長として戦闘中、熊本県 田原坂の戦いにて戦死。「北方木の葉という処」という記録がある。

 その頃の将校たちは、黒い厚手の生地(黒羅紗)に、黄色の肋骨飾り(あばらふきんの飾り)が目立ち、敵軍の良き目標となり、将校が多く戦死している。その中の一人であった。

役歴
大砲砲撃手(江戸詰め)
御床机廻
御次番
小姓
小姓頭取
目附役
先手同心頭
先手物頭
函館戦争(官軍として参加)
明治政府陸軍大尉
東京鎮台幕僚参謀
歩兵第3連隊副官
大阪鎮台歩兵第8連隊第1大隊長
西南戦争で戦死(熊本県 田原坂の戦いにて)

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