【中学受験日本史】4. 聖徳太子
もともと私たち①氏の軍勢(ぐんぜい)は不利だった。それはそうだ、敵の物部氏一族は、ヤマト朝廷で軍事をつかさどる一族、精強な軍隊と、巨大な武器庫を抱えていたからだ。
物部氏は拠点である河内(現在の大阪府)に、稲を積み上げて作った防壁を築いて籠城(ろうじょう、城に立てこもること)した。物部守屋自身も、木に登って強い弓を振り絞り、雨のように我々①氏の軍勢に矢を浴びせかけてきた。
しかし、①氏の長(おさ)である②は、物部氏随一の弓の名手であった迹見赤檮(とみのいちい)をスカウトして、味方にした。そして、私が四天王の像を作って戦勝を祈ると、
ヒュッ!!
迹見赤檮の放った矢は、見事に物部守屋を射殺、戦況は一気に我々に傾いた。そして我々は、ついに勝利を収めたのである。
私、聖徳太子が四天王の像を作って祈ったのは、しかし、物部守屋が死ぬことなどではなかった。私は心の中で「もうこれ以上人が死ぬのを見るのは嫌です、早く戦争を終わらせてください」とひそかに祈ったのである。そもそも仏教徒の私は、戦争全般にめっちゃ反対なのだ。しかし、今回は、私の親族である②と物部守屋との間に大きな戦争が起こってしまい、私もそこにむりくり参加させられ、人を殺してしまったのである。
そもそも、②と物部守屋との間のガチバトルは、進歩的な考え方をする②に比べて、物部氏は考え方がコチコチの保守的(昔からの考えこそ正しいとする考え方)で、中国から仏教を取り入れる際に、仏教をヤマトの国に広めたら、昔ながらの八百万(やおよろず)の神々がゲキオコして祟(たた)る(神様が人間に害をもたらすこと)に決まってるじゃん、だから仏教はんたーい!としたことから始まった。
そして、ついに、
②は仏教をひととおり理解しておりしているようだが、ひたすら「仏をお寺にまつれば世の中が平和になる」④という、「とりま理解した」レベルにとどまっている。しかし、中国から取り寄せた仏教の教科書をたくさん読んだ私にしてみれば、この考え方はおかしい。なぜならば、お釈迦様は八正道を説かれ、その中に「人を殺すことはいけない」とはっきりとおっしゃっているからだ。仏教を広めるために戦争を起こすというのは、明らかに矛盾なのである。
私は物部守屋を滅ぼした戦いで、戦争に参加するのは、最初で最後にしたいと思った。私はこのヤマトの国を、戦争のない平和な国にしたいのだ。
①はヤマト朝廷で活躍した大豪族です。聖徳太子の時代の首長(リーダー)であった②の名前を答えなさい。
また、①は、自分たち一族の娘を天皇の妃とする外戚(がいせき)政治と、物部氏をはじめとした他氏排斥(自分たち以外の氏族を殺害するなどして政治的な力をなくすこと)で権力をふるいましたが、平安時代に似たようなことをして権力のトップに上り詰めた貴族の名前を答えなさい。③空前絶後の意味を自分の言葉で書きなさい。
④②が建立(こんりゅう)した(建てた)寺の名前を答えなさい。
⑦は、⑤の国に聖徳太子が派遣した使節です。⑦の名称と、そのリーダーである⑥の名前を答えなさい。
⑧と⑨は、ヤマトの国に官僚(かんりょう)制度を導入するための政策(政治の仕組み)でした。日本初の憲法である⑦の名称と、⑧の名称を答えなさい。
また、ここで官僚制度とは、政治のリーダー(古墳時代なら天皇と皇族、現代日本なら議会と内閣)を、官僚と呼ばれる能力の高いスタッフが支えて国を動かす仕組みです。現代日本には、この官僚が動かしている、12の省庁があります。そのうち、知っている3つを答えなさい。⑩、⑪の空欄を埋めなさい。
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