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文豪はアラフォーで何をしていたのか


30代は棚卸しのとき

 Podcastで、ジェーン・スーと堀井美香の「OVER THE SUN」という番組がある。以前よく聴いていた。今はPodcastではなくAudibleを聴いている。

 その中で、スーさんが「30代は人生の棚卸しのとき」と言っていた。当時私は36歳くらいだった。

 私は30代に入ってから、在野ではあるけれども生涯追い求める学問を定めて、アウトプットとして物語を作っている。勉強を始めてからは七年ほど経過した。アウトプットは、物語制作は三年、小説に定めたのはここ一年くらい。現在から振り返ってみてだんだんと道が作られてきたと感じるのであって、その過程では、一般的なビジネスパーソンというか会社員として生きていくのが結局はいいんだと考えていた。

物語を作り上げてみて、いきなり他の物語がわかるようになった

 物語を作ることに本気で取り組むようになってから、古典作品が身近になった。

 村上春樹は小中学生の頃すでに世界文学全集を読破していたらしいが、私は図書館ではもっぱら、学校が文学の森に存在させることを許した漫画作品を読んでいた。『ブラックジャック』とか、『はだしのゲン』とか、世界の偉人列伝を漫画にしたようなやつを。

 夏休みに図書館で本が長期貸出しされるときに、気合いを入れて『ドリトル先生』を借りたのに、結局一ページも読まないで返したとき、「私って本を読めない人かもしれない」と挫折感をうえつけられたもので、あの苦々しい感覚は今も心の片隅にある。

 かたや、テレビゲームでRPGにはまったときは、公営図書館で魔女狩りの歴史に関する大人向けの文庫本を借りたりして、当然読破はできなかったけれど、当時から、「理解する」ことより、「理解できない・難しいと感じること」そのものが好きだった記憶はある。

 長編作品を書き上げると言うのは、メタルキングを執拗なまでに追いかけ続けてついには倒す、みたいな感じに似ている。心が折れそうになりながら長丁場の戦いに挑み、制覇して初めて、ものすごい量の経験値が手に入る。延々とレベルアップの効果音が鳴り続ける。

 やりきって初めて、本を読むということがどういうことか、物語とは何か、誰も言葉で教えられなかったようなことが突然身につき、私は以前より「読める」ようになっていた。

アラフォーから読む古典

 古典は若いうちに読め、と、誰に言われたわけでもないのに、若いうちに古典を読めなかったんだから自分はダメだ。とどこかで思っていた。でも単に、本に没頭できるまとまった時間が取れるのは子供時代という意味くらいだったのだとわりきることにした。

 古典の何がいいのか、文豪たちの作品のどこがいいのか、あるいはだめなのかを、自分で考えられるのは、ある程度考え方が大人になっている必要がある。

 若い時に、何がなんだかわからないけどとにかく惹かれるという読書体験も重要だけど、読んだ本によってある種の呪いや幻想をかけられることもあるんだから。

太宰治、芥川龍之介、夏目漱石についてアラフォー視点で読んでみた

 前置きが長くなってしまったが、誰もが認める文豪たちについての考察をしたい。

太宰治

 はるか以前に『人間失格』を読み、太宰とは分かり合えないと思っていた。私の弟はかなりの読書家なのだけど、弟は『人間失格』を評価していたので、改めて取り組んでみたいなと思っていた。
 今年に入って未完の絶筆『グッド・バイ』を読んだとき、ダイアローグが上手くて驚いて、他の作品もいくつか読んでみた。『ダス・ゲマイネ』『畜犬談』『駆込み訴え』『走れメロス』……タイトルは忘れたが下衆な友達が酔っ払って居座る話を読んだとき、やっぱり太宰とは分かり合えないと感じ、そこで放棄した。

 有名な話だが38歳で玉川上水で心中している。

芥川龍之介

 長編はものにできなかったらしい(Wikipediaより)が、短編作品の美文が彼の評価を不動にしている。今昔物語などの古典に人間心理を織り込んで再解釈した作品が多い。しかしそこに織り込む心理が、不自然な感覚を覚える。不自然に掘り下げすぎというか。とくに『芋粥』で主人公に何が起こったのか、私には理解できなかった。待ち望んだ大量の芋粥が、狂喜のうちに口腔や臓腑を塞いでいくさまを食感や匂いとともに執拗なまでに描写してほしかった。

 35歳で副毒自殺をしている。

上手すぎてもいけない気がした

 お二方は文句なしに物語を作り出す力というか、才能と実力が確かにあったのだと思う。でも、もしかしたら若くしてもてはやされすぎてしまったのかもしれない。
 少なくとも全盛期は原稿に向かえば湯水のように美文が溢れ出し、お題を与えられればとりあえずそれっぽいことを言えたのではないだろうか。
 芥川龍之介に関しては、随筆で警句集の『侏儒の言葉』を読んだ時に、30代前半で賢人のように振る舞って、自分が痛くてのたうちまわりたくならないのだろうか。と思って作品について調べたら、自殺をする前まで連載されていたものだった。作中には発言に対して読者から意図しない誤解を受け、釈明記事を出した形跡もある。今で言うと炎上だろうか。

『吾輩は猫である』と自死

 夏目漱石の考察をするにあたって、Wikipediaのほか、以下の本を参照した。(本へのリンクは出版社に張りたいところ、OGP画像が読み込めなかったのでAmazonに張ります)

 『別冊NHK100分de名著 読書の学校 養老孟司 特別授業『坊っちゃん』』は、中学生に向けた講義内容をまとめた本だが、漱石の略歴や養老孟司による考察は、どの年代の方でも何かしらの発見があると思う。

私は古典に触れる時は、とりあえずAudibleで流し聴きしてみることも多い。活字による読書体験と耳での体験はちがう。どちらにも一長一短ある。耳で聞く物語の大きな利点は、文字を追うだけでは見えにくい、物語全体の流れとかうねりが見える時があることだ。

 『吾輩は猫である』は、冒頭も設定も有名すぎる作品だ。なんせ冒頭がそのまま設定になってるんだから。

 当作には筋書きらしい筋書きはないとされる。そこそこの分量のある長編のせいもある。そこでAudibleの出番だ。聴いていると、猫がだんだん文明人的な存在になっていくことが読み取れる。ネタバレで申し訳ないが、結末では猫は自ら死を選んだように読める。

 以上のことから、私は『吾輩は猫である』は漱石が「動物は文明化し、文明的人間の特徴である自殺をすることができるか」の思想実験に取り組んだ作品なのかなと解釈していた。

 『吾輩は猫である』は、漱石が37歳の時から手がけ、38歳で出版したデビュー作である。

 ここですでに意外だった。先生、作家デビュー、遅かったんですね……。

 夏目漱石のデビューまでの足跡を辿ると、漱石も30代後半までに人生の棚卸しを迫られていたことがうかがえる。エリートで生きてきて、明治時代の人々の大半が夢にも思わないイギリス留学を成し遂げた(本人は気が進まなかったらしいが)。しかし、官僚や産業・経済の専門家として生きるのではなく、当時はごろつきの集団だとみられていた新聞社に入り文筆業を志す。

 私があげた三人の文豪は年代がそれぞれ違うが、考えようによっては、二人の文豪が自死を選んだのとは違う方法で、夏目漱石もこれまでの自分を一旦リセットさせたかったのではないだろうか。

 太宰治が初期の作品『ダス・ゲマイネ』で主要人物を自死させたように、作品の中で、おそらくは自己を投影したとみえる登場人物を殺してみる作家は多い。作中に描かれる死は、作家にとっての何かしらの死を意味するとも言える。

 しかし、日本の近代文学の夜明けに、猫でそれをやってのけたのは、夏目漱石のセンスというか洒落心を感じる。

 私の弟は「筋がよくわからない」という理由で夏目漱石があまり好きではないと言う。

 私は同じ理由で夏目漱石が好きだ。漱石は50歳で胃潰瘍を悪化させて死んでいる。神経衰弱で文字が極小になって、ルーペで読まないといけないほどだったらしい。
 そこまで命を削って書いたのに、漱石の作品にはどこか楽観がある。諦観という人もいるかもしれないが、一歩引いているかんじが卑屈じゃないというか。楽観の正体は何か知りたくて読む。しかし明らかには書いていない。本を開くたびに目に見えない楽観に出会える。それが見たくてまた読んでしまう。

40代を間近に控えて、目に見えないクライシスがある

 人の生き様は簡単にまとめられるものではないが、私は太宰や芥川は自己欺瞞に勝てなかった側面があったのではないかと考えている。達者なだけに、その場しのぎのごまかしはきいた。でも少しずつたまったズレやツケが払えなくなったのではないだろうか。

 人間の本質はそういうズルさにあるんだとしても、私はそこで諦めたくない。人生には生きるに足る何かがあると信じたいし、自分だけの人生ではないと信じている。だから降りたくないし、落ちていく過程を他の人の娯楽にするよりは、浅いと言われても希望を語りたい。そういう思いで、自殺した文豪には共感がしきれない。

 私は夏目漱石がずっと好きだったんだけれども、「彼は何か」を突っ込んで考えたことがなかった。自分で考えなくても、漱石には「文化人」「文豪」「文学の巨人」「日本の近代小説(口語での文章表現)を作った人」というタイトルがあるし、みんながすごいと思っている。The classicで正統派。私がすごいと言わなくても、間違いなくすごい人、それが夏目漱石だ。

 でも、明治という時代背景に立った時、漱石はある種の「はみ出しもの」だったのではないか。今で言うミス・フィッツ(Misfit)。文学の型をつくったのに、その実、型破りな芸術家だった。

 今日書いた記事で芥川や太宰じゃなくて漱石を読め、と言いたいのではない。どの作品も自分の創作生活に厚みを加えてくれたとおもう。
 年齢を重ねると文豪の作品に違う視点を持つことができ、周囲が味付けした評価抜きで作品と対峙することができるようになると言いたかった。

 自分の視点でいろんな作品に取り組んで、自分なりの角度で考察をしてみるとおもしろい。そして記事を書いたら、ぜひ教えてください!


 何者でもないアラフォー女性が、35万文字の物語を完成させるため、作品を作り続けるための全努力をマガジンにまとめています。少しでも面白いと思っていただけたら、スキ&フォローを頂けますと嬉しいです。

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