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ゆめまぼろし

ただあることを認めてもらうのは夢幻、
と私は思う。

「ようちゃん、」
おばあさんが私を呼び止める。
「今日は元気ですか」
靴のかかとを整えていた私は顔を上げて
「はい、頑張ってきます」
薄く笑って答える。行ってきます、玄関を開けて閉じる音と行ってらっしゃいを背に受ける。

暖かい布団でたっぷり眠り、朝ごはんをもりもり食べて、それでも体や気が重い日がある。傍から見れば、不機嫌そうである。
それでも、邪険にされることなく、いつも通りに、あるいはいつもより気遣ってくれる。どんな機嫌でも、どんな状態でも、ただいるだけで良いと思わせてくれる。

「いつも機嫌がいい人」「自分の機嫌は自分で取ろう」などという婦人向けの雑誌を何度か見たことがある。

たしかに、仕事や家事や子育てで疲れきった母は機嫌によって何もかもが全く違った。昨日怒られたことが今日は怒られない。今日怒られたことも明日には忘れている。顔色を読み、機嫌を伺い、最も悪かった場合を想定して身を振る舞う日々は、私の何かを育てなかった。あるいは何かを壊した。

己の存在が有益であることを証明しなくてはならないと思っていたが、そこまでの器用さも能力もなく、更に機嫌を悪くさせるのが常だ。

一方で私も母と同じだった。疲れたら機嫌が悪くなる。反応が鈍り、周りを気遣えない。おばあさんは不思議な人である。曰く、あまり人に興味がなく故に周りがどんな態度でも「いまあなたはそうなのね」と思うだけだそうだ。振り回されるということがない。

機嫌の波を起こさぬようにと思っていたのに、どんなふうでも許される。夢幻だと思っていたことが存在した。

私と母は、海の人なのかもしれない。
おばあさんや、その息子である父は地の人かもしれない。

私と母はお互いの海流がぶつかって激しい渦や波を立ててしまう。
穏やかな母と父、私と祖母の関係は、波を受ける砂浜の関係かもしれない。

砂浜はいつか全て海に飲まれるものかしら。
いま私が立つ穏やかな浜辺は、目覚めてしまうまでの、夢幻の風景かしら。