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ああ、新緑の銀閣寺!

さて、今日は何を書こうかな?と思っていたときに出会ったお写真。
銀閣寺に実際にお行きになった方への羨望はこの際放っておいて、素敵な銀閣寺のお姿に感動しつつ、ここのところよく話題にする思い出話などを・・・。

長男の嫁だからか、あるいは里心を起こして、関西に帰りたいとでも言いそうだったのか、夫は私の里帰りをあまり嬉しく思っていなかった。ということは、母に夫が言ったらしく、

ははーん・・・。

とある日そういうことだったのかと気付いた。

それも証拠に、年末に、本家のおじさんから電話があり、本家のお孫さんの通う大学の心理学の課題を仕上げるのに、うちの子どもたちを被験者にしたいという依頼があり、

あんた、正月に大阪に帰るかと思て・・・。

と言われ、頭の中に???

今まで、長男の嫁がお正月に実家に帰っていいわけがないものと思っていたし、誰もそんなこと許してくれるわけもなかった。

おかしい、おかしい、おかしい。

本家もそうかもしれないと認めていることを、私は長らく許されてこなかったのか・・・?

その数年後、私は子どもたちを大阪、京都、奈良へと連れて行ったときも、仕事で休暇にならなかった夫は、あれこれうだうだと言い、どうも私たち三人が、私の実家にしばらく滞在することを好んではいなかった。

手のかかる、まあ、言ってみれば甘えん坊の人ではある。
が、しかし、理由はちょっと違うような。

どう考えても厳し過ぎる家で、それも、全て、

こっちは○○だから・・・。

で言いくるめられ、何にも知らない私は素直にそう信じていた。
が、こちらに帰って来て、息子が幼稚園に入り、PTAの役員同士が仲良くなり、あれこれおしゃべりしているうちに、地元で育ったママ友たちの、婚家への苦言を聞いているうちに、

愚痴のレベルが違うやん!?

とわかって来たのである。

内孫と外孫を、同じに扱った、つまりは自分の産んだ内孫の方を大事にしてくれない、と訴えている友人に対して、私の要求は、

せめて私の子どもたちを、妹さんのお子さんと同格に扱ってほしい。

だった。いつでも妹さんのお子さんを事実を捻じ曲げてでも立てておられた義両親。と思っていた。後に訊ねたら、お義父さんは、

おわ、そんな、心のねじ曲がったこと、思うとらん・・・。

と苦悩に満ちた顔でおっしゃったことがあった。
確かに、娘が生まれる前に、お義父さんは、お義母さんに、

これからは、内孫と外孫、しっかりけじめをつけさせてもらう。

と宣言されたことは知っていた。
それに、お義父さんは、実にうちの子どもたちを可愛がってくださっていた。
もっともっと関わりたくて、子どもたちの習い事を時間割を作ってほしい。自分もあちこち連れて行きたい、と子育てに協力的だった。

などなど思い出はあるが、ある年、そう、息子が少年野球に入った年、その後はなかなか旅行にも行けなくなるだろうと、私が、せめて京都や奈良に連れて行っておきたいと計画を立てた。

ある日、金閣寺の後に銀閣寺に行くという、とんでもない強行軍。というか、不可能ではないにせよ、ちょっと京都で日常を経験した者にとっては、ちょっと違うけど、京都に何日も掛けられなかったので、この際仕方がなかった。

そうそう、母校の大学の学食で、ご飯を食べさせた。これは経費節減の意味もあった。それほどに母校に愛情があるわけでもない。(笑)
パパの出身の法学部の時計台をバックに、子どもたちの写真を撮ったら、息子はおどけて、自分のお尻を叩いているという、およそ優等生とは無縁である。この構図。おかし過ぎる。
あの時計台、結構な時計台なのに・・・。
軽く華やかな時代に女子大生をして、できれば軽やかに生きたいと思っていながら、教育実習なんぞに行けば、

ああ、私ら、いつもは気付いてないけど、やっぱりあの時計台を背負って生きてんにゃなあ、と思たで・・・。

とそうそう重苦しくない友人でさえ嘆息したほどの、私たちが受けた、教育を比喩的に表していた時計台である。

それなのに、その後学食でご飯を食べようとしたときに、学生が席を譲ってくれた(なんという素敵な後輩なの!?)のに、ありがたみも感じず、その後の夏休みの自由研究にしたアルバムに、

なんてうるさいんや!どういう教育しとるがや!?

と書いていて、心底呆れた。(笑)

ただ、まだ歴史をそうそう習っていなかった小学校二年のわりに、パシャパシャ金閣寺や銀閣寺をカメラに収めた後、その写真でアルバムを作り、コメントに、

何で金閣寺には金が張ってあるのに、銀閣寺には銀が張ってないんや!?

と書いていた。
それはきっとその後、彼はどこかでの日本史の授業でその疑問を解決したに違いない。どうぞ足利義政公にお聞きあそばして・・・。

やはり母や姉、祖母とはアプローチの仕方が違う。
私たちは、銀閣寺の縁側に座り、目の前の銀砂灘を眺めながら、風に吹かれてその気持ちの良さに包まれて至福の時を過ごしていた。
息子のように事柄的なことに気持ちを向けることなく・・・。

そして、大学時代のボーイ・フレンドと歩いた哲学の道のことなどを思い出していた。
そうそう、君の父との初デートは金閣寺であった。(笑)

文学部同士の会話って、ちょっと違う。
そういえば、私が初の運転をしていた軽自動車に乗って、子どもたちの習い事の送り迎えをしていたときに、

ねえ、あの雲は何に見える?僕はシュークリームだと思うよ・・・。

と言い出したことがあった。なかなかにロマンチストなところもあるではないか?

たしか、哲学の道を歩いていたときには、ロマンチックではないが、文学的にはなかなかおもしろい話をしていた。修辞法的な・・・。

それに比して、夫は本当に現実的。金閣寺には金が張ってあり・・・、などと言い出したら、即座に財政の話になり、具体的なお金の話になり、きっと、

あのな、銀閣寺建てた頃は、この国は貧乏やったんや・・・。

とでも言いそうである。(笑)

ものの見方って、どういう学問をするかということで変わってくる。

どこかで読んだのかもしれない。

たとえば、カラスが飛んだとする。
おそらく文学部の人間なら、

何か、良くないことでも起こるのだろうか・・・?

と考え、それが社会学を学んでいる人なら、

ああ、この辺も街になって来たから・・・。

となり、生物学を学んでいる人なら、生態系について思いを馳せるかもしれない。

かつて、ちょっと街の大通り(県内)で、カラスが車に轢かれて瀕死の状態でいた。そのカラスを仲間が、なんとか生きられるよう、気にして一生懸命介抱していた。

ちょうどその頃、私は、人間の冷たさや醜さに辟易していた頃だったので(自分のことを棚に上げてよく言うわ!?)、

ああ、みんなからあれこれ言われるカラスでさえ、仲間を思う気持ちがあるのになあ・・・。

と感心したり、ちょっと悲しくなったりしていた。

いろんな人がいて、いろんな見方がある。
また心象風景も変わる。

それがその人その人の人生を紡いでいる。
それでいいのだろうな。

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