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本を読むことと心の強さと偉大な人

まあ、知っている限りの、いわゆる目に見える何かを成し遂げた人って、私の周りにおいては、

ああ、やっぱりこの人なら・・・。

というだけの何かがあるような気がしている。
先日から真の強さって何だろう?と考え続けてきたし、今まで気付かなかったことに気付き始めているのだけれど、結局人に嫌なことを言わなかったり、八つ当たりしたりしなかったり、陰口や悪口を言わなかったりする人って、周りを傷つけることが嫌なのだろうし、何よりも自分の品性として、あるいは自分の尊厳を傷つけたくないのだろうと思う。

人を引っ張っていくような人間には器というものが要求されるし、結局徳ということも大事だと思う。

自分がしんどいからと言って、劣等感を刺激されるからと言って、誰かを無用に攻撃したりする人は、結局弱い。
それに、強い人は、人のことなど目に入らず、自分が努力することに必死である。
まあ、人のやっていることに気付いている間は手元がお留守ということで・・・。

私も新卒で勤めた頃は、人のしていることが気になっていた。
教師なのに・・・。

とか、

どうしてこうもブチぶち言っているのだろう?やらなければならないことはやるしかないじゃない?

人のことを言っていると言えば言っていた。でも、少しずつそれって自分のするべきことがお留守になっているのだということがわかって来た。

ただ、自分がするべきことを邪魔する人は苦手だった。
自分の立場が悪くなるからそれ以上やらないで・・・、みたいなことには、

それなら生徒はどうなるんですか?

と聞きたかった。

私がお人好しなためか、先輩なのに非常勤講師の先輩は、先輩面をして、私の仕事をけん制されようとした。それには参った。
自分の仕事をするのに、人間関係の調整から力を注がなくてはならない。
気に入らないと、美人は大きな目で私をにらみつけた。

それって他校にはあったのだろうか?
有力者たちを味方につけて、可哀想な自分を作り上げ、私が悪者になるように仕向けていた。というより悪者にしか見えなかったのだろう。

高校の時の先輩で、間接的に聞いたのだけれど、世界を股に掛けて仕事をしていらっしゃるそうだ。誰が聞いても、ああ、あの会社?というところで。
私もそちらの製品にはお世話になっている。

その方の内面は知らないし、私が男性として意識するような方ではなかった。でも、怒っているところを見たことがないし、誰にも嫌なことをおっしゃる人ではなかった。

ああ、あの方ならね。

と思わされる。別に好きというわけではないにしても。

自分が大事で、だからほかの人が自分の立場がどうのこうのなるから何か素敵なことをされたらいやだ・・・、というのは自己中心的以外の何物でもない。
嫌なら自分も頑張ればいい。
でも頑張る気もなく、条件だけ並べ立てて、それで可哀想ぶるなんておかしい。

結局、今現在のありようも、来し方の在り方、もっと言うなら心の在り方の結果だと思う。
誰かをバカにするようなことをしてきた人は、誰かにバカにされる立ち位置にいて、一生頭を上げられなかったりするかもしれない。
それをかわいそうに思う理由もない。

もちろん親ガチャ理論が指摘するようなことはありうる。
でも、それだけではないと言い切れる。
毎日の一瞬一瞬を、自分をいい方へいい方へとちょっとだけ振れるように行動する。美しくない方にはできるだけ行かないように。

人間的面白みがない?
いえいえ、そういう人はとっても人間的におもしろかったりする。
だってあまりに怒らせるようなことをしたら、サッと離れていく。
その離れ方はとってもドラマチックで、おもしろい。

強くあろうとするにはやはり本を読むことに如くはないと思う。

一つには、先人の考えから、人生を先取りできるから。
ア・プリオリに、人生を経験できる。

二つ目。結果がわかる。
○○すれば~なる。
ということがわかる。

三つ目。
真の偉大さということがわかる。

四つ目。
生きるということの意味がわかる。

三つめは四つ目の前提。こレがわからなければ、四つ目は理解できないと思う。

この思いに至ったのは、人生でも最もしんどかった時に、学生時代から読みたいけれど、読まなければならないけれど、当時は怖くて読めなかった、ヴィクトール・フランクルの『夜と霧』からだった。
生きるということの意味は、真の偉大さの向こうにある。そして、その渡井たちが問われている人生の意味を、遂行していくところに、偉大さがあると思わされる。

人生にはいろんなことが起こる。
もう終わりか・・・?ということをどんなに成功しているように見えている人でも人生のどこかで経験することがあるだろう。

私にも、もう教育は嫌だ!と思わされそうなときがあった。
でも、やはり倦まず弛まず教育活動をすることは大事である。
教育活動でなくても、周りの人とどうやって協調してい生きて行くかということは大事である。

それに、そこを乗り切った人だけが、人に何かを言うことができる。
誰かのためになることができる。

最近、人の人生って、トータルしてみればそうそう変わりがないのではないか?と思えてきた。
周りの人で、自ら何かをするのではなくて、与えられた環境のまま、本当にしあわせそうな人はいない。
実際、同世代の友人と話していても、みんなが羨むような人でも悩み事を抱えているものである。

高校時代に思ったことがある。
誰もが羨む?場所にいるはずだった。電車に乗っても、デパートでも、制服を着ていたら、あるいは学校名を言ったら、

ああ・・・。

と羨望のため息を吐かれているようだった。今思い出したけど。
でも、あの時代、私は切に願っていることがあった。

しあわせがどこにあるかわからない。
誰か完璧なしあわせな人を見たい。

電車に乗っていながら、あちこちを見回した。
素敵なお洋服を見つけることもできないし、しあわせそうな人はいなかった。素敵なお洋服を着ておられる方がいらっしゃっただろうけれど、自分には素敵に思えなかった。
生き生きしている人も見つけられなかった。

だって、そこに行ったらしあわせがあると信じて入ったところが、みんな幸せそうに見えなかった。
どうしたらしあわせを見つけられるのだろう?

○○に合格したら?
○○になったら?
結婚したら?(正直、これは発想にはなかった。(笑))

○○に合格しても、教師になっても、どこにもなかった。
結婚したら、正直苦労の連続でしょ?これは人生の先輩たちが、

若いときにするからこそ結婚生活に耐えられるというわけで・・・。

とおっしゃっていたから当たり前に思っていた。その程度はあるにせよ。

ただただ、努力してきた日々は尊く思われたし、それに、そのうち努力することの中にこそ喜びがあるのだと思われた。

だからこそ、今でも、最も苦労していた頃が一番懐かしい。

楽しかった瞬間。何かに合格したり、賞をもらったりした瞬間でもなく、ましてや華々しい結婚式でもなく、娘とお金がないなか節約してお買い物に行っていた頃。なんとか子どもたちにしてやりたくて工夫していた頃。新任のどうやっても授業がうまく行かなかった頃。
婚家で一生懸命慣れない味を目指してお料理を作っていた頃。

なんだか一生懸命にやっていた頃が一番懐かしい。
その頃は深刻でも、

大丈夫。あなたは絶対にそこを乗り越えるから、安心して頑張っていればいいのよ・・・。

と言いたくなる。

生きるということはそういうことだ。
生きるということは自分のものだ。
自分の人生は自分の手中にあるはずだ。

だから、若い時期に、自分が思い通りに行かないからと言って、周りにさんざん迷惑を掛けて、八つ当たりして、横暴を極めていた人にいいことなどあるはずがない。
弱すぎる。周りに依存していて弱すぎる。
大きな声を出して、威嚇していたのにね・・・。


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