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言語の流通性と普遍性の話から女学生とビックマックとミルフィーユの話をする

あさイチ、高校の週末課題の国語に付き合って、昨夜の続きの解説をしていた。
現代文の言語に関する話。
茂木健一郎さんの『思考の補助線』と村上春樹の『職業としての小説家』の一部抜粋からの文章で、それはそれは言葉を仕事の対象とする私にとっては解説しどころ満載のおもしろい指導である。

ある言語圏での言語の洗練が、そのことによって違う言語圏では理解できないものになる一方、もう一つ、流通することが普遍性にイコールとしてとらえられがちであることに注意する、ということを「言語の罠」という表現で語られていた。

こういうのを具体で解説することが大好きであるし、得意でもある。
解答というアウトプットをそれこそ洗練させる過程で、あら、まだ理解できていないのね・・・、というときにはもう一度解説をし直す。

そこで、文章の中にもあった、スタバやマクドナルドを引き合いに出し、流通性がそのまま普遍性になるわけではないことを話していたときに、世界各地の話になった。

おそらくは日本と言えば、海外の人から見れば、金閣寺が一番普遍性がありそうだし(少なくとも私の大好きな当時のイケメン帝釈天ではなさそうなことくらいは容易に想像がつく。)、それは私たち京都に通っていた者にとっては庭みたいな場所にあり(少なくとも洛中は庭である。)、デートコースの銀閣寺よりも、金閣寺の方が、こういう言い方をしたら日本文化に申し訳がないけれど、メジャーな存在であろう。
でも、遠く地方に来てしまった今ならなおさら、生まれ故郷にいたときに、日本=金閣寺ではおよそなかった。

でも、これは推測の域を全くでないのではあるが、おそらくは、海外で日本の絵葉書が売られているとしたら、おそらくは紅葉の頃の金閣寺、雪の金閣寺などが一番多いのではないだろうか?

そこが京都の不思議なところである。
普段自転車であっちこっち行っていたらなじみ深いところなのに、よそから来て、サンダーバードからみた東寺は、いつもいて側にいてくれる慕わしく温かい東寺ではなくて、威厳のある、まるで京都を守っているかのような風情である。ライトアップされているのを見ると、

ああ、この人はこんなに素晴らしく美しい人だったのか・・・。

と親しく思っていた自分が小さく感じられるというものである。

まあ、日本は金閣寺さんに代表していただいておけばいいのかもしれない。
三島の作品のせいかもしれないし・・・?

とは言いながら、流通性の怖さをちょっと思ってみたものだった。
そんなこんなを熱弁し、そうだ!と思ってさらに解説をした。

かつて職場でヨーロッパに行くという話になった。
どこに行く?という話になっていた。
正直、私はその話は断れないな、と思っていたので、
どこでもいい・・・。
と思っていた。

イタリア、イギリス、スペイン・・・。
その候補の中に相当おもしろい候補として、それはそれは美しくて有名なクロアチア、というのも出てきた。

その時に反対された英語の先生の表現が素晴らしい!と思った。

なんで初めて日本に来る人が、富山を選びますか?
まあ言えばそういうものでしょ?

なあるほど!

つまりは、みんなが知っているところに最初に行くものでしょ?

富山県は確かに海外で日本の国としてよく知られているところではない。
でもさあ、私にとっては、京都より、日本を表しているという点では、富山県って日本の性質をもっともたくさん持っている県の一つであろうと思う。
そういう点では京都は洗練されていて、本当に気品がある特殊性を帯びていると思う。

四季が豊かで繊細な文化が最もよく発展したところで、しきたりという面でも人の交流という面でも、ある種日本人すべての憧れの土地である。
その細やかさが私は憧れと共に大好きである。
普段は優しい普通の人の顔をしていただいているが、いざというときの底力、いや、底力などという粗野な言葉を使ってはいけないほどのしなやかな強さをお見せになる、最も洗練された土地。

それを最も日本的と言ったら逆にちょっと洗練させてきた京都に申し訳もなければ、ちょっと違う感じもあるけれど、そんなものである。

もし日本の国を本当に知りたいと思ったとしたら、むしろ富山県の方がよほど日本的なものをたくさん包含していると思う。
山紫水明こよなく美しく、おばあちゃんがたくさん働いている。
働き者の日本を代表するかのようにいつまでも働き者が多いように思う。

真弓ちゃん、この暖簾、おばあちゃん浴衣解いて縫うたんやよ・・・。

それは小さいころ自分の祖母が大阪でやっていたこととも通じていた。
都会はそれだけ発展のスピードが速い。今ならニトリで買った方が時間的にも値段的にもお得かもしれない。
けれど、かつて大阪でも祖母がやっていたことをこちらのおばあちゃんはマメに素敵にまだしておられた。
それが私には手作りで温かく感じられた。
小さいころにタイムスリップしたかのような温かさだった。

当時は能率第一のバブル期の大阪や京都で過ごしていたから、それこそその幾分のんびりとした時間軸に慣れるのには時間が掛かっていたのだろう。
でも一方で私はそのとんでもなく日本的なものに心惹かれた。

お慶びごとがあるとお赤飯をいただく。
その色がなんとも日本という国を表しているように思われた。

流通しているから日本人の普遍性を表しているとはいえない。
もう廃れ始めているものにこそ日本という国の性質を表しているものが結構多い。

言葉を扱う仕事をしているからこそ、この微妙な繊細なニュアンスの違いをものすごくうまく表している日本語の豊かさが失われていってはいないかとそれこそあたらし(ものすごく勿体ない)という思いがする。

私は古文も好きなので、この古文の言葉のすばらしさを一部のそれを学ぶものだけのものになっていることが残念でならない。

国文科が少なくなってきているという流れがあるそうだけれど、それは最も気に食わない。私ごときが気に食わなかろうとそうでなかろうと誰も気にしてはくれないにしても、微力でもちょっとはこの動きを止める方向に動きたい。(笑)

生徒が言っている。
私のことを古典オタクだと。
そうですよ!日本語大好きですよ。
英語をやっているとより日本語が好きになる。

昔西洋かぶれのように、論理的な西洋文学の方が素晴らしく思えていた頃もあった。
けど、結局日本文学は素晴らしいと思っている。

キーン=ドナルド先生(敢えて聞かされてからのお名前を使わせていただくけど。)もおっしゃったという、

日本語は日本人にとって最も素晴らしい宝物。

この言葉がすべてを語っている。

確かに洗練され過ぎた言語は他の言語圏では理解されにくい。

そして一方流通性。

いろんな話に発展していった。
兄がフランスに留学した時に最初に行ったのは、パリではなく南の方でディジョンであったこと。フランスと言えばなぜかパリで、エッフェル塔と凱旋門とシャンゼリゼ通りとルーブル美術館だと思っているけど、きっと何かがあったんだろうね・・・、という話と、兄にミルフィーユの作り方を教えてと頼んだら、冷凍パイシートで作れと言われたこと。
そして、ビックマックがおいしいということ。だけど、先日どこかのセミナーに行く途中でちょっとお腹に何か入れておこうと思って、チーズバーガーを食べてみたら、とんでもなくおいしかった、という話。
ミルフィーユをどこかで食べるときには勇気が必要で、

いつもどうしてる?

という話になって、食べたときの状態を再現してみたこと。
あの、一番上のパイがフォークを入れてもうまく行かずに斜めに倒れてどうする?という話や、ビックマックは外では食べることができない話などなど。

国語の指導はあれこれいろんなところから話が発展しつつ、でもそうやってあれこれ話してこそちゃんと理解してもらえることもある。

彼女の高校の先輩であるうちの教室の卒業生がこの度県立の中高国語科の先生の採用試験に合格し、4月から教壇に立つことになった。
合格の知らせと共に、

覚えていらっさるかわかりませんが、先生に「教員に向いてる!」と言われたことがとても支えになっていました。

と言ってくれました。
そうだったのかなあ・・・、と思っていたのですが、私の大好きな学校現場に教え子が、そんなことを思ってくれて、それに同じ国語科で教壇に立つことになるだなんて、本当に嬉しいのです。

かつての私もそうでしたが、国語が彼女を支えているというような彼女で、彼女自身が好きな作品を教えてくれたり、その本を貸してくれたり、その本をベッドサイドテーブルの上に置いて読んでいたことを思い出したりします。

私はどちらかというと、彼女が、

先生は人の言葉を曲解しないから・・・。

と言ってくれたことが印象的で、それこそ教師をしている私を支えてくれていました。

かつて高3の時の担任の国語の先生が、

教師と生徒はgive&takeの関係だと思うんです・・・。

とおっしゃっていたのをどういう意味かと考え続けてきたけれど、彼女と私はそれこそgive&takeだったのかもしれないなあ、と思います。
国語の先生になってほしくて、それをこそ願ってきたのですが、私も十分にいろいろ支えになってもらっていました。

春に、お嬢さんの成長を喜ばれているお母さまと一緒に来てくれました。

先生、コツコツ努力していたら、いいことあるって、子どもを通して教えてもらいました。

と言ってくださいました。同じく弟さんも進学されて、それもかつて私がふと言った言葉があって・・・、と言ってくださり、なんともありがたいお言葉でした。

お子様の成長を嬉しく思われるお母さまのお言葉に、

そんなに鼻高々に言わんといてよ!

と言っている彼女の横で、お母さまは、

お母さんだって、誰にでも言ってるわけではないよ。先生やから。先生は一緒に喜んでくれる人やから・・・。

と言ってくださったのも嬉しかったのです。

そうそう、私たちの仕事は誰かの人生の中で、ちょっと気付いたことを言って、それがちょっと役に立てるともうとんでもなく嬉しいという仕事です。
永遠の触媒。
誰かが元気になるための仕事。
それも自分でなくても良かったのかもしれない。神様からふといただいたような、降って来たかのような一瞬の言葉を誰かに伝えるための仕事なのかもしれません。

それを同じ国語を専門とする先生になってくれる・・・。
どうか日本語の美しさをたくさん伝えてもらえますように!

そして国語の文章を一緒に読んでいる彼女はナースになりたくて大学を目指しています。
彼女の夢もかないますように!
縁起がいいですね!

もしもサポートしていただけましたら、そのお金は文章を書いて人の役に立つための経験に使います。よろしくお願いいたします。この文章はサポートについて何も知らなかった私に、知らないうちにサポートしてくださった方のおかげで書いています。