昔、文学にかぶれていたことがあります。
とにかく古典、と名のつくものはなんでも好きで、ギリシアの哲学から近代の私小説まで読んでました。
大学の授業なんて真面目に出ず、就活もせず(親父の会社があったので笑)、独りで自分がうなづける考えと出会うために毎日大学の図書館に行っていました。
大学の前半は快活で友達が多かった私ですが、だんだんせせこましくなってくる周囲が本当に嫌で、絶対就活なんてしない!と思って距離が出てきたのです。
今思えば就活だって新卒なら一度きりなんだし、やっておけば?と自分に言いたいかったのですが、あの時は目線の狭い人間でした。
ともあれ、私は本当に色々読みました。
ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』には目を丸くしてました。
トーマスマンの『魔の山』は今でも私の聖書。
フローベールの『感情教育』は最高の恋愛小説。
ヘーゲルの『精神現象学』は読むと勇気が湧く。
夏目漱石の『草枕』は私の生き方そのもの(だと信じてた)。
川端康成の『掌の小説』はいつも携えて読んでいた。
あの頃はぼっちだったのに、楽しかったのだろうか?本となんか語らって、と思うけど、そういうことは今思えば二十代だからできたのかも。
今はもうそんなことできません、そんな情熱はないので。
替わりに落ち着いて、今までの経験が整理できるようになってきました。
あの時読んだ本、ああだったな、と。
視点が変わると気づきもあるのですね。
その点で、今私が気になっている随筆があります。
『大和路・信濃路』という堀辰雄の中編です。
信州・八ヶ岳の山麓に住んでいた堀が、古都・奈良とを往還しながら、思索を深めていく様が描かれます。
堀辰雄という小説家を知るのには欠かせない随筆として知られます。
初めて読んだ時、正直私はあまりピンときませんでした。
「西洋かぶれだなぁ」とか「いかにも私小説家だな」という感想しか抱かなかったのです。
『大和路・信濃路』という叙情的なタイトルに比して、内容は本当に個人的なものに過ぎないのです。
でも最近私は共感力や想像力(他人の立場に立って物事を考える)が強くなって、堀の言わんとしていることがだんだん分かってきました。
あと自分自身も奈良に惹かれ移住を計画している身なので、今回読んでみてとっても分かる〜、という部分が多くありました。
堀はルーツを広島に持つ東京生まれの人間ですが、結核のせいもあり高地の信州に長く住んでいました。
私の祖母も大分文学少女だったので、昔一緒に軽井沢の堀が住んでいた信濃追分まで行った思い出があります。
信州と奈良、そこにはどんなつながりがあるのでしょうか。
堀は信州住まいの人間として、奈良との違いを文中には多く記しますが、その実読む我々としてはこの二つの国の共通点が否応なしに意識づけられます。
大和も信濃も、本当に古い国。
ロマンがあって、上古を想い、永久に旅をするように住む。
そんな感情によって繋がった二つの国。
これこそ堀が天然で生み出した魔法なのかもしれません。
堀は『大和路・信濃路』の最初でこう言っています。
堀のなかでは好悪感情が非常に重要です。
堀は信州ではあまり厚遇されなかったので信州に良い印象を抱きませんが、そういう感情にこそ堀の潜在的な本心があるような気がしてなりません。
「信州の石仏に良いものは一つもないが、奈良のは全部いい」みたいなことも言ってますが、ようするにないものねだりなのです。
奈良という土地はマジックがかかっていて、そのバイアスで全てがよく見えます。
一方で信州という土地にもマジカルバイアスはあって、あそこには御柱や道祖神といった不思議なものが沢山あります。
そういうものを見ると、ああ信州に来たなぁと思わされますが、堀は「おらが土地」みたいな意識があって(江戸っ子なのに)、感情が邪魔して気付けないのです。
そんな堀はけっこうミーハーなのか、中宮寺の例の半跏思惟像について言及します。
和辻哲郎っぽい、文化の伝播について思索するのですが、最後の一行には注目。
いきなり奈良仏と信州石仏を並列する堀の心中は計り兼ねますが、まあロマンチストね、て感じ。
ここに出てくる「樹下思惟」、そういえば正倉院宝物に「樹下美人」というタペストリーがありました。
この頃正倉院宝物は今みたいに公開していませんでしたし情報も全くありませんでした。
それでも何か「樹下美人」が念頭にあるかのような発言、ドキリとさせられます。
さて、本文の日記体部分に入ります。
堀はアッパークラスなので滞在は老舗の奈良ホテルです。しかも15泊はしてますよ、この方。
いいですね、私は奈良行く時は6000円の安宿ですよ、朝飯しかついてない。
私は奈良ホテル泊まったことはありませんが、立地最高ですね。
ホテルの南に大乗院という興福寺の門跡寺院であった子院の跡地があって、そこの庭園ごしに旅館が見えるの、素晴らしい。
写仏部の合宿は奈良ホテルでにしましょうかね笑
さて、お次は唐招提寺の境内でくつろいだ堀。
この日は結構ご機嫌だったのか心地よい饒舌です。
ここ(唐招提寺)は俺たちのギリシアだ、とか言ってしまう堀はやっぱりミーハー?
あ、でも私も秋の唐招提寺でぼーっとしてたことありました。
金堂の脇の椅子に座って、ギリシアから伝来したという木柱の「エンタシス」を見ていると、なんか愉しい…。
境内は高い松の木が多く、風にそよぐ音もまた美しい。
ごきげんな堀の気持ちがよくわかります。
唐招提寺のお次は佐保路へ。
訪れたのは海龍王寺です。
佐保路…。いい響きです。
私の大好きな法華寺や不退寺のある一帯をそう呼びます。
今では宅地化されていますが、ところどころにかつての面影を残しております。
千年前にも実は大伴氏ら豪族の宅地であったというこの土地で、堀は妄想という名のロマンに耽ります。
いえしへ人のあひびきは(ツルゲーネフの小説?)美しいけども、今の粋人とやらは…と言いたそう…。
海龍王寺は戦前は拝観料取るどころか、廃寺呼ばわりされるくらい荒れ果ててたのですね。
お、次は西大寺の北西、秋篠寺でございます。
ああ、秋篠寺の伎芸天、またミーハーですねぇ。
しかも「ミュウズ」って。
でもあの伎芸天は不思議な像なのです、確かに。
秋篠寺の苔に覆われた、静かな雰囲気も最高。
一回しか行ったことないから、また行きたいですね。
続いては西の京の薬師寺です。
堀は何に注目したのかというと、東塔の一番上の「水煙」という装飾。
この水煙、まさしく奈良時代を追憶するのには素晴らしい彫刻なので是非見てみてください。
この当時の薬師寺は今みたいに広々とはしておらず、松林に覆われていました。
ほとんどの伽藍は朽ちて、その中に東塔という「凍れる音楽」があったわけです。
この水煙、燃えるような、爆ぜるかのような非常に凝った造りをしていまして、いにしへ人の創意の凄さを見せつけられます。
お次は「戒壇院」。
堀はそこで読書をしたのだそう。
奈良には戒律を授ける「戒壇」が二つあります。
東大寺と唐招提寺です。
東大寺は戒壇堂が残っていて、中には高名な四天王像が安置されています。
唐招提寺のほうは、境内奥にあって、建物はなく石段のみが残ります。
堀は多分東大寺のほうをおっしゃっているかと思います。この時代メジャーなのは明らかにこっちなので。
彼が読んだのはポール・クローデルというほぼ同時代のフランス人小説家のキリスト教戯曲。
大変篤信的なムードに溢れた劇だそうですが、堀はそれを東大寺の戒壇院にも適用してみます。
彼は信州の住まいでも真冬に読んだことがあって、それもまた良しとしています。
しかし堀のこの劇に対する理解度や共感は奈良という不思議空間に来たことでさらに深まっている感じがしますね。
同じ小説を信州と奈良で読む。それによる感じ方の違い。中々面白い体験です。
次も東大寺です。三月堂(法華堂)をお詣りします。
しかし堀が書いたのは本尊・不空羂索観音さまではなく、脇仏の月光菩薩さま。
「人間性への神性のいどみ」???
うーん、分からん。
でも堀は天平びとの簡素さを月光菩薩さまに感じ取ったようですね。
不空羂索観音さまは脱活乾漆造なだけ親しみづらいですが、月光菩薩さまは塑像なので柔和さがあります。
上の言はもうしかしたら、仏像はどれもいかめしくていかんが、この月光菩薩さまは人間味があっていい、てことかな?
さて、21日は見仏友達がやってきて、一緒に東大寺戒壇院の内部へと誘います。
戒壇院の四天王、私もみたことがあります。
ただ、お堂の広さに比して四天王は小さく、しかも壇の四隅に祀られているので、なんか印象に残らないのです。
多分実際に見るより、ネットのお写真を見た方が良いかと。
ただこの見仏三人衆はよく四天王のお顔を見ていまして。
「こういう顔した天平びとがいたんだろうな」「邪鬼が踏みつけられてかわいそう」「身が引き締まる」とかみんな感想としてはアレですが、堀の文がいいからなのか、中身がある気がします。
あーこういう見仏、やってみたーい。いかがでしょう、写仏部員たち?
で、堀はというと、今度は法隆寺で写仏?
今は亡き金堂障壁画をスケッチする画工たちを堀は目撃します。
ちょい長いですが引用します。
この文章を読むと、このすぐ後に焼けてしまう運命にある金堂障壁画が哀れでなりません。
しかし堀が目撃したように、この時期このマスターピースの素晴らしさに惹かれ、多くの画工が模写を試みていました。
それにしても、こう何気ない場面なのに堀の御手から生み出される文章はこうも美しくて叙情的なのでしょう。
そして百済観音。堀は一番お好きだそうです。
堀は百済観音を「彼女」と呼び、以前は飛鳥の橘寺に「彼女」がいたエピソードなどを披露します。
あ、そうなんだ。百済観音って最初から法隆寺にいたのではないのは初耳でした。
夢殿近くの宿屋について思索した文章、美しいですね。
菜の花や梨の花、いいですね。私は平原に咲き乱れる紅いレンゲソウが見てみたいです。確かそういうのが入江泰吉のお写真でありました。
そして、堀は一編の物語をこの奈良体験から書いてみようかと思うに至ります。
15日もいてまだ奈良ホテルに泊まる気なのか…(絶句)。
この文章が書かれたのは1941年。十五年戦争の真っ最中ですね。
堀の体調はこの後急激に悪化し、結核療養で小説を書くどころではなくなります。
そのまま戦後亡くなってしまうのですが、もし元気だったら戦後どんな奈良と信州にインスパイアされた小説を書いたのだろうと思ってしまいます。
信州から奈良。奈良から信州。それが大和路・信濃路です。
堀の奈良滞在編はこれでおしまい。この後は書簡と断片みたいな文章が続きます。
あと三つの文だけ見て終わりにいたしましょう。
まずは書簡の一部を。
奈良は「南国的」、そんな堀の印象がとっても印象的。
無論こうした彼の感想は信州の冬との比較によって生じるものであり、現代の東京に住んでいる私のような人間はとても抱かぬものなのです。
「古代の古墳」ってやつもあまり信州には似つかわしくないと堀は思っているらしいですが、彼は信州の古墳や遺跡、御柱に目はいかなかったのでしょうね。
そういう堀の意図的な対比の構図を作り出す思考回路はまた興味深いです、現代人からしたら。
信州も考古学や歴史学が進歩して、いろいろなことが明らかになってます。渡来人のこととか、安曇氏のこととか。
今の観光大国・信州なぞとても堀には想像できなかったでしょうな、まさか奈良よりも信州のほうが魅力的だとは。
あ、奈良=南国の話に戻りますが、奈良でタチバナのかわいい花とか見ると、私は確かに南国っぽいなと思いますね。
ああいう楽天的な花は信州には似つかわしくない気が致します。
それこそ、北アルプスに咲くウルップソウやオダマキ、ツクモグサのような高山植物が…。
二文目は柿本人麿について論じたもの。
妻の死を悼む歌です。
彼があげた人麻呂の2首は万葉集にのっているポピュラーな和歌です。
堀は『風立ちぬ』のモデルにもなった恋人を実際に喪っていますので、人麻呂の気持ちは痛切に感じられるのでしょう。
人麻呂マニアな一面のある堀は、十五泊に及ぶ奈良旅でも絶えず人麻呂について言及していました。
人麻呂の妻を亡くした心情、彼のロマンティシズムは大いに堀の共感を誘ったことでしょう。
そうして信州と奈良はまた結ばれる、感情によって。
なんか不思議ですね。
やっと、最後の文です。
本当はこの後聖書を引用した文書が続くのですが、ここでは取り上げません。
大変高明な、「浄瑠璃寺の春」という文章です。
浄瑠璃寺は奈良?と突っ込まれるかもしれませんが、中世には興福寺の僧侶の隠棲所であり、バスも奈良から出ているので、京都府ですが奈良として扱います。
この文章から、哲学的な省察がなされた部分を抜粋します。
「第二の自然」という新しい観念がここでは提示されますので、ご注目を。
「第二の自然」とは、英国でいうゴシック小説みたいな世界観なのでしょうか。
それとも一種の「崇高美」のような。
奈良という都市自体、この「第二の自然」が当てはまりそうですね。いい具合に忘られられて枯れていく町、奈良。
そういえば、浄瑠璃寺というお寺はなんとなく信州っぽさのあるお寺な気がします。
山の中にあり、ひっそりとしていて、ハイキングができて、どこか自然な風情がある。
それこそ、塩田平の別所温泉あたりにありそうな古寺のイメージがするのです。
昔から浄瑠璃寺というお寺には何か懐かしさを感じていましたが、もうしかしたらここにはそういった信州の高原的な開放感があるのかもしれません。
奈良と信州を結びつけた人間は堀辰雄が初めてかもしれません。
当時はそれほど共通点を見出し難かった二つの国は、時を経て、ロマンという感情で繋がるようになりました。
ですから、奈良好きと信州好きを兼任されている方は意外といらっしゃるのではないでしょうか。(京都ではない、のがポイント!)
私は本当に堀辰雄がもし生きていたら書いたであろう、古典に範を取った小説を読んでみたかったです。
そこには信州に住み、奈良に恋焦がれた人間の集大成が息づいていたであろうと思うのです。
最後に。
堀辰雄に贈る一曲を。
シューベルト作曲、スヴァトスラフ・リヒテル演奏の「さすらいびと幻想曲」を。
奈良も信州も、人は旅にさすらうように住む…。