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中国の仏像を見るー歴代の石仏、金銅仏、石窟を中心に

写仏部部長、Himashunです。

本日より十回ほどに渡り、仏像史を講義させていただきます。

本当に講義するほどの立場の者では全然ないのですが、下手の横好きが高じた、教授ごっこ程度のものだと思っていただければと思います。

仏像というとどんなイメージを持たれるでしょうか。

謎めいていて、崇拝の対象で、美しい…。

個人差はあると思いますが、だいたい理解できるものだと思います。

でも歴史、仏像の歴史を知ると、またそういった観念が変わったり、一層深まったりするかもしれません。

日本には日本の仏像史がもうしっかり成立しているわけですが、日本以外にも韓国、中国、チベット、インド、それに上座部仏教国、それぞれの仏像史があります。

しかも、2000年近く前のインドのクシャーナ朝で初めて仏像が作られる前にも、偶像を作る歴史はあるわけです。

それこそ、ヘレニズム国家やアレクサンドロス大王のマケドニア、もっと遡って古代ギリシアの神像にまでそのルーツは遡れます。

本当は4000年前のギリシアから現代日本の籔内佐斗司さんに至るまでを語ってみたくもありますが、高校世界史程度の知識しかない自分にはまだまだ先の話かなと思います。

ですから、ギリシアの神像やインドの仏像については省き、日本の仏像史に直接的な影響を及ぼした中国と朝鮮の仏像について、「前史」として今回は書きます。

まずは中国の仏像。これについてはWikipediaの「中国の仏教」と「仏教美術」の項が大いに参考になりました。

wikiは参考にならない場合も多いですが、この二つは非常に視野が広く、参考文献や注釈もそれなりにあって、何より知識欲をくすぐる素晴らしい文章です。是非ご参考に。

さて、これから中国の仏像を概説しますが、直接的に参考になるべき三つの文献があります。

それらから抜粋した画像を見ながら、仏像史の輪郭が見えてきたらと思っています。

それで、参考にしたのは以下の3冊です。

①『中国・山東省の仏像』MIHO MUSEUM 
②『歴代金銅佛造像』 国立故宮博物院
③『中国石窟 敦煌莫高窟』 平凡社

これら三冊を一つずつ見ていきます。

いずれの本も中国仏教の黎明から盛期、あるいは衰退期までを扱った、幅広い視野の本です。

中国の歴史はわからない、という方にも一応歴史の話をしながら進めていきます。どうかお付き合い願えたらと思います。

まず、MIHO MUSEUMで開催された、『中国・山東省の仏像』展図録から見ていきましょう。

山東省というのは中国でも北の方に位置する省でして、華北と江南で分けた場合の華北地域にあたります。

そこで数十年前に大発見がありました。

地下遺跡からなんと、大量の仏像が見つかったのです。

それらは多くが石仏であり、幾度とない廃仏や時代の波の中で完全に失われたと思われていました。

始皇帝の兵馬俑坑もそうですが、中国ではこういったことが稀でもなくありますね。

石仏たちは、日本でイメージされる路傍の小さなサイズのものとは違い、一メートルを超える通常サイズの仏さまです。

それらは両腕の欠けたもの、頭部のないものが多いですが、まるでギリシアのトルソー(神像で四肢の欠けたもの)のように美しく古典的です。

時代としましては、魏晋南北朝から隋にかけてのものになります。

仏教が中国に入ってきたのは後漢の終わり頃だそうですが、ちゃんとした教義や経典でもって本格的に受容されたのは漢と隋という統一王朝の間にある、400年に及ぶ分裂の期間、魏晋南北朝でした。

この魏晋南北朝では北方民族の力が強く、彼らは中国に入り込みそこで仏教を受容しました。

魏晋南北朝を代表する王朝である北魏では廃仏もありましたが仏教は保護され、有名な雲崗石窟や龍門石窟が造営されています。

中国では崇仏と廃仏が交互に繰り返されますが、それは宗教が政治と癒着した結果起こるものであって、ダイナミックな中国の歴史らしいなという気もします。

では、その北魏の仏像から下って行きましょう。

こちらの石仏。

渦巻く螺髪、かわいらしい微笑み、長い首が特徴的です。

光背にも飛天が舞い、非常に精緻な描写がなされています。

顔の形は飛鳥仏のアーモンド型よりも上部が大きいスタイルになっていますね。

飛鳥仏よりも前の様式ということになるでしょうか。

弓を張ったような衣紋の表現も、日本には伝わらなかった古様ということかもしれません。

こちらは北魏から、その北魏が分裂した東魏にかけてのものと思われる仏像。

非常にスラリとした頭身であり、光背は頭部の背に円形で付属しています。

この仏像に既視感を覚えられた方はとってもいい勘をお持ちです。

横から見るとこんな感じになります。

あっ!と思われるでしょうか。

かの法隆寺の「百済観音」に立ち姿がそっくりですね。

百済観音のひょろりとした、不思議なスタイルの源流をここに見てとることができるわけです。

ただ、相貌の点ではあまり似ていませんね。

いわゆる、アルカイックスマイルを浮かべており、アーモンド型のお顔立ちはどことなく幼なげに見えます。

東魏時代の菩薩様です。

印を結ぶ左手が残っており、微妙ながら彩色の跡も見られるなど、大変希少な仏像ですね。

このあとで紹介する金銅仏と格好の点で共通点を見出すこともできます。

石仏と金銅仏では様式が違いますし、小さな金銅仏と大きな石仏では、表情の出し方に一番大きな差異が出ます。

日本に運ばれた中国の仏像の多くは金銅仏であり、こうしたアルカイックスマイルを浮かべた、ハイレベルなニュアンスの表情は日本に伝来しなかったでしょう。

ただ、法隆寺の飛鳥仏・救世観音様は口元も笑っていますし、山東省の仏像ほどではないにしろ、アルカイックスマイルの伝統は受け継がれています。

東魏時代の黒色を帯びた一光三尊形式の仏像です。

一光三尊といえば、善光寺のご本尊のことを思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう。

一つの光背に中尊と脇仏を配置する形式は、南北朝から唐にかけて長く流行しました。

こちらの仏像はシンプルながら力強さに満ちた表現がなされています。

衣紋の表され方は平面的で、法隆寺金堂釈迦三尊でも見られるものです。

光背のレリーフはまるでコンパスでとったかのように美しい均整を保っていますね。

東魏の後継王朝・北斉の半跏思惟像です。

半跏思惟像源流を私は勝手に朝鮮の百済かと思っていました。

しかし、南北朝の時代にはすでにこうして造られていたわけです。

百済や広隆寺の国宝の半跏思惟像と比べると、リラックスした感じはなく、造形に固さがあることは否めません。

ただ、直線的な衣紋はカーテンのように波打っており、相変わらず愛らしい笑みを浮かべていますね。

半跏思惟像はこのあとの莫高窟編でも再び登場しますよ。

東洋のトルソーとも言うべき、美しい菩薩の残欠。

ギリシアのトルソーは筋肉の塊としての重みを感じさせてくれます。

一方こちらのトルソーは石のずっしりした感触の方が勝っているものの、その表面に彫られたレリーフの正確さや左右対称の美しさに思わず心酔しそう。

日本でも奈良末から平安初期の木像、例えば大安寺や唐招提寺の仏像にこのような量塊的な美を見出せますね。

南北朝終わり頃と思われる仏像です。

もはやアルカイックスマイルは鳴りをひそめ、その代わりに耽美な瞑想に耽る静かな表情が印象的です。

やはり全体よりは相貌という細部の変容に驚かされますし、この後どう変化していったのか非常に気になるところではあります。

ただ、石仏として時代が辿れる山東省の仏像はここまで。

唐代の石仏としては、全然石の質や彩色が違いすぎるのですが、場所を敦煌に移して、この後見ていくことにしましょう。

続いて二冊目の金銅仏の特集に参りましょうか。

金銅仏、知らない方に説明しますと、基本的に鋳造した銅に金メッキを加えた、比較的小さな仏像のことを指します。

初期の日本の仏像は特に中国朝鮮の金銅仏の影響を強く受けており、法隆寺金堂釈迦三尊や法輪寺薬師如来にはそれらしさがあるように私には見えます。

今回参照した本は、中国語の図録です。

以前も紹介した、国立故宮博物院の『歴代金銅仏造像』展図録でありまして、中国の魏晋南北朝から明代までの金銅仏が編年的に載っています。

副題にrecently acquiredとあるので、この図録が刊行された1996年までに博物院が手に入れた、新しめのコレクションということでしょう。

この図録で金銅仏の変遷を見ていますと、分裂期の魏晋南北朝における北魏時代、そして唐の杜甫や李白が出たいわゆる盛唐(712〜765)という二つのピークが描けるようです。

もちろん北魏の後の東魏北斉、西魏北周、そして隋から初唐にかけても素晴らしい金銅仏が存在しますし、唐が滅んだ後も造仏は続きます。

ではそれらを見ていきましょうか。

まず、こちらの頭の上部が出っ張った仏さまは、三国時代とそれに続く西晋の後の、五胡十六国時代の金銅仏です。

五胡十六国時代とは、北方から五つの異民族が侵入し、国を建てた時代です。

この時代にまで遡る仏像はほとんど失われているため、大変希少な作例になります。

本当にシンプルな造りであり、陰刻された衣紋にもまだ力強さは感じられません。

ただむしろ北魏の金銅仏が「うるさく」感じられる方にとっては、この時代の仏像の飾らなさに欠けることのない美を見出すでしょう。

五胡十六国のあとに南北朝が続きますが、これはその中の北魏の金銅仏です。

金工技術は飛躍的に進歩し、それに伴って仏像も少し大型化したでしょうか。

先ほどの山東省の石仏で最初に挙げた、北魏の石仏と見比べてみてください。

あちらとは渦巻く髪やアーモンド型の顔立ちが共通していますが、金銅仏の方はアルカイックスマイルがかなり地味です、人によっては笑っていないとも言われるでしょうか。

衣紋はさらに差異が生じていまして、シンプルでダイナミックな文様の石仏に比すると、金銅仏の方は大変緻密で静謐な表現になっているとでもいいましょうか。

まさにここが石仏と金銅仏での表現の仕方の違いというべきか、メディアによって表現方法が異なるのは当然というべきか。

日本でも中国の金銅仏や石仏の表現を木像仏に持ち込もうとしましたが、結局それらは長続きせず、日本風の表現に置き換えられていますね。

北朝の最後、北周の金銅仏です。

この辺から中国金銅仏らしい表現が現れてくる気がします。

というのも、衣紋の端の広がりや仏様の体に巻き付く管のような装具の美しさ、そして宝冠から垂れる細長い衣の優雅さ、これらが見られるようになっているからです。

北魏の金銅仏の緻密な線刻とは異なり、滝のように流れ落ちる衣端や装具によって動きを表そうとする造形表現が編み出されたのです。

これによって仏様の外見も大きく差異が生じ、北魏のころの金銅仏には坐像や二尊形式が多かったのが、この頃よりダイナミックな立像になっていったように思えます。

統一王朝、隋の「らしい」金銅仏です。

なぜ「らしい」かというと、私の中の勝手な金銅仏イメージがまさしくこれだからです。

立像であり、宝冠を抱き、優雅な衣をまとう。

ある意味これが中国式金銅仏の出現というべきか。

上の北周仏と比べていただくと、何が違うでしょうか?

まず光背がなくなりましたね。

そして少しコントラポスト(重心を片方に置く)っぽくも見える感じに、腰を右にくねっています。

顔立ち、特に目の表現が変わりまして、上まぶたの周縁に線刻していたのが、ほぼ目を閉ざしたようなシンプルな表現に変わりました。

この後見る盛唐のラディカルなスタイルがあまり好まれない方には、隋代の金銅仏が最も魅力的に映るでしょう。

さて、こちらがその盛唐スタイルの金銅仏です。

非常にハイレベルに造られた仏像であり、精緻さとダイナミックさとが両立しています。

腰のうねりやくびれはさらに強調され、宝冠から足元まで伸びるひだはまるで独立した生物かのようにうねっていますね。

全体としてパワーのみなぎりを感じるこちらの仏像、大分隋の仏像から変わったなぁという印象を受けます。

Wikipediaで見たのですが、唐代にはインドのマトゥラー石窟のスタイルが取り入れられたそうで、官能的な表現がもたらされたそうです。

同じような仏像に見えますが、こちらは晩唐、すなわち末期の唐で造られたもの。

明らかに衣紋の表現が大人しくなり、腰のくびれにも強調がされなくなりました。

その結果として落ち着いた印象こそ抱くものの、圧倒するような美は失われているように思われます。

スタイルとしては盛唐を模したものなのでしょうが、新しい様式の風というものは感じづらいでしょうか。

唐から五代十国の混乱を経て、宋に入ってからの仏像です。

非常に日本の木造仏的な表現に近づいた感はあります。

逆に言えば、金銅仏固有の表現としてはもう失われている状態でしょうか。

ちなみに結んでいる印からお分かりになるかと思いますが、この仏様は大日さまです。

日本だと大日如来は宝冠を被り、髪も直毛ですが、こちらの大日さまはパンチパーマで宝冠もありません。

そこは日中の違いなのでしょうか。

大日さまは密教特有の仏像なので、宋代には密教仏の造仏もある程度あったかもしれません。

宋から異民族の支配、元を経て明に入ってからの仏像です。

150センチもある巨大な金銅仏で、時代が降ると大型化する金銅仏の状況が窺えます。

一方で明代にはこんな仏像(?)も。

大黒天さまだそうですが、明らかに異国風な見た目です。

それもそのはずで、元代にはチベット仏教が流行した影響で、それ以降の仏像にはチベットの仏像の影響が反映されているみたいです。

それにしても強烈な外見ですね。

三つ目のファクター、それは石窟寺院です。

日本では磨崖仏が多少残っていますが、石窟寺院というのは宇都宮の大谷ぐらいでしょうか…。あそこもちょっと違いますが。

一方中国では仏教が盛んになって以降、インドを模した石窟寺院が多数造営されました。

今も雲崗石窟や龍門石窟、麦積山石窟などが残っていますが、やはりその規模や時代の長さで考えると、敦煌の莫高窟が一番でしょう。

莫高窟では五胡十六国に始まり、北朝・隋・唐・宋・西夏・元に至るまで約千年間造営が行われ続けており、大変稀有な事例といえます。

敦煌の石は砂のように脆く、掘削には適しますが、この石で持って仏像を造るにはあまりにヤワだったようです。

そのため、土を固めて造仏する塑像の形式が敦煌の仏像では支配的になっています。

これと並んで壁画も仏像と空間を荘厳するものとして描かれ、保存状態も良好なものが多いです。

ではさっそく見ていきましょうか、敦煌仏の世界を。


まずは北魏時代に造られた257窟の、半跏思惟像です。

山東省の石仏でも半跏思惟像は紹介しましたが、こちらは塑像である点をまた考えていかねばなりません。

石仏は削っていくものですが、塑像仏はむしろ加えていくものなので、逆の発想ということになるでしょうか。

現に、石仏ではおおまかに体部を削った後でその表面に紋様を加えていくスタイルでしたが、塑像仏においては体のラインが綺麗に見えるように造形されていますね。

そのため、紋様は簡略化されますが、色彩は豊かでありつま先まで複雑な造形がなされています。

同じく北魏の塑像仏です。

非常にシンプルで大人しい、如来さまらしき坐像ですね。

お顔はアーモンド型で、口元にうっすら微笑みを浮かべているように見えまして、先ほどの金銅仏にも似た雰囲気を持っています。

やはり衣紋の表現がシンプルになる分、それを色合いで補うのが塑像仏のスタイルでしょうか。

技巧的にも表現的にもまだまだ凝ったところは見られませんが、その簡潔さにむしろ惹かれてしまいます。

すみません、少し時代を遡って五胡十六国時代の仏像もありました。

とんでもなく古い仏像、さすがは莫高窟ですね。

やはり北魏のものよりもクラシックなスタイルをここでは見ることができます。

こ足をクロスさせる「交跏」というポージングは日本の仏像では見ることのできない、本当の古様式なのでしょう。

仏様のお顔も雲崗石窟のそれを思わせるような、インド風の顔立ちをなさっています。

下半身の吸い付くような衣紋のひだの描写も非常に丁寧で、素晴らしい傑作です。

続いて南北朝期の三尊像です。

まるで日本の五重塔初層の、心柱四方をお守りする仏さまのようですね。

中尊は椅子に腰掛け足を下ろす、椅像のスタイルで、日本では深大寺の釈迦如来が同じ形式を取ります。

室内を荘厳する色彩が眩いばかりに残っていて、仏さまの存在を忘れてしまいそうです。

使われている色はそれほど多くなく、また仏像の色とかぶっているがために、三次元空間にいるのに、まるで絵画を見ているような印象を抱かせます。

その点では敦煌の莫高窟は立体的というよりは絵画的な空間美なのかもしれません。

同じく北朝時代の仏像です。

先ほどよりも明るい色彩や仏像の数の点でにぎやかになった印象があります。

強烈に残る色彩の印象に引っ張られがちですが、仏像では衣紋が特に注目かなと思います。

決して写実的ではありませんが、とっても健康的というか、伸びやかな曲線を描いていますね。

隋唐になると肉感的な造形が前面に出てくるので、これらはその前の比較的穏やかなスタイルということができるでしょうか。

時代は隋に降ります。

菩薩像でしょうか、半裸帯でネックレスや帯を体に下げておりまして、先に見た隋の金銅仏と似たような表現がなされています。

先ほど指摘したように、やはり生身の肉体を意識させるような造形になっていますし、耽美さを感じさせる出来栄えです。

お顔立ちはとってもはっきりしていますね。

シュッとした眉、くっきりと浮かぶまぶたの周縁部、黒い大きな瞳、やはり金銅仏との共通点が見出せます。

唐代に入ると、艶やかさの表現はさらに強まります。

菩薩さまはさらに人間に近づいたような写実生でもって迫ってきます。

お顔立ちはは東アジア風というべきか、ふっくらとした我々には見慣れた仏様ですね。

切れ長の美しい眼差しやすらっとした鼻立ち、そして唇を見ていると、市井の少女を見ているような気にもなります。

やはり全体として既視感のあるスタイルですが、こうした仏像がおそらく日本の立像形式の仏像に大きな影響を与えたのかもしれません。

盛唐期の仏像になると、金銅仏で見たように体を捻ったり、首を傾けたりという造形が見られるようになります。

先ほどの菩薩像と比べると、さらに官能的に踏み込んできた感がありますね。

うつむき加減であり、若干腰を左寄りに重心を構えることで、思索に耽っているような印象を与えます。

そういえば、薬師寺の薬師三尊は白鳳時代の仏像であり、脇仏は腰をくねらせる造形をしています。

白鳳時代は盛唐よりも前ではありますが、こうしたうねりの造形は唐の仏像に特徴的であり、薬師寺の仏像はその影響下にあるのでしょう。

その点では、表情をつけるというアイデアもまた唐の仏像の産物かもしれません。

こちらは笑みを浮かべる天部さん。

いわゆる北魏の仏像あたりのアルカイックスマイルとは違う、唐代の写実的な相貌表現でしょうか。

奈良時代にも塑像による写実表現は流行しました。阿修羅像の真摯な眼差しは我々の心を打ちます。

ただこちらの天部さんのような、ユーモラスな笑みを浮かべた仏像というのは、日本人にとっては不遜と写ったのか、今には伝わっていません。

さて、晩唐にもなりますと、先の金銅仏同様に仏像の革新性も陰りが見えてきます。

こちらの二尊、なまめかしさは引き継がれており、くびれた腹や妖しい胸部などを見てとることができます。

しかしながら、表情は硬く、どこか空を見るような虚な目線であります。

生気を感じるというよりは、ああ仏像だな、という感想をお持ちになるのではと思います。

やはり晩唐から五代十国、そして宋になっていくと中国社会は革命的に変わっていきますし、科挙、儒学、そして士大夫がとにかく社会の中心になるのです。

その中で仏教は次第に上流階級に顧みられなくなり、チベット仏教や禅宗、阿弥陀教を除けばさしたる運動は無くなってしまいます。

それでも莫高窟の造仏は元の時代まで続けられました。

写真は宋代のものです。

宋以降の仏像は木像にしろ金銅仏にしろ、固有のスタイルを見出すことが難しく、わずかに仏画の世界では元代までその芸術命脈は保たれた感はあります。

ただ、莫高窟の仏像は、まさしく中国の仏像史そのものな気がします。

千年間、造仏が続き、しかもそれらがほぼ手付かずのまま残されていた。

敦煌とは奇跡のような場所なのですね。


さて、大変長くなってしまい申し訳ありません。

今回は石仏、金銅仏、石窟の三点から中国の仏像、主に中世のものを概観してみました。

この講義の目的としては、日本の仏像史の前史として中国仏を紹介することでした。

ちょくちょく日本の仏像を引用させていただきましたが、そのように中国からの影響を考えてみた上で、日本の仏像史を考えてみることが重要だと思います。

中国仏に日本の仏像の面影を見出すことはとてもワクワクするような体験だと思います。

遺品が少ないのが惜しまれますが、その遺された仏像たちを慈しんでいけたらいいですね。

さて、次回はまだ飛鳥仏には行かず、朝鮮の仏像も見ていきたいと思います。

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