暇・人

暇に任せて、「=」と「即ち」を探します。基本的に個人的な見解、というか、ほぼ独断と偏見…

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暇に任せて、「=」と「即ち」を探します。基本的に個人的な見解、というか、ほぼ独断と偏見に基づくものであり、かつ、その企みのほとんどにおいて失敗が見込まれます。悪しからず。

最近の記事

<祖先神>が孕む特異性と危うさ

神道は色々な特徴を持っています。ただ、他の宗教との比較で考えると、どうしても特殊に思えてならないのが、祖先神というものの存在です。言い方を変えれば、神を祖先とする人間の一族が存在する、という考え方です。 神(特に人格神)と人間との関係です。信奉する神がいるのは、まあよくある話ですが、人をその子孫に位置づけるのは、寡聞にしてあまりその例を聞きません。 例えば、近そうなのはトーテム祖先辺りでしょうが、こちらで考えられているほとんど崇拝対象は、アニミズムに基づく自然の構成要素に

    • ユダヤ教の特殊性

      ユダヤ教は、滅びた国の宗教です。普通なら、国とともに消滅してもおかしくなかったのです。ですが、他の民族とはちょっと違った受け止め方が、この宗教を今日まで生き永らえさせたのです。 国同士の争いは、多くの場合、敗者の宗教を根絶します。もちろん、占領地の宗教に寛容だった帝国もなかったわけではありません。ですが、多くの場合は自壊していきます。それは、自分たちの信奉してきた神には、自分たちを守るだけの力を持っていなかった、つまり崇拝するに値しなかった、と考えるからです。 ですが、ユ

      • いい加減なゴーヤ栽培2024①

        もう彼これ10年くらい、自宅のベランダでゴーヤを栽培しています。今年もゴールデンウィーク中に種を蒔き、つい先日、無事にいくつか発芽したのを確認しました。 わが家のゴーヤ栽培はグリーンカーテンとしてで、実がなってもほとんど食べません。というか、育て方がいい加減だからなのでしょう、ほとんど実はなりません。毎年、最初にそれなりの実がなるのですが、後は小ぶりなのがいくつかつくくらいです。 それも、オレンジ色に熟し、崩れる手前までそのままです。これは、翌年以降のために種を取るためで

        • ヨナは何故、神に怒りをぶちまけたのか

          ヨナは、旧約聖書の登場人物としては珍しく、神に対して怒りを露にします。 最初の怒りは、神が、自らニネベに下すと告げていた災いを思い直した時に向けられました。 これだけだと、まるでヨナがニネベへの災いを望んでいたかのようです。ですが、決してそうではありません。というのも、後のやりとりで明らかになる通り、ヨナは、神が災いを下すことを思い直すほどに「恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富」むことを知っていたからです。 すると、ヨナは一体何に怒ったのでしょうか?

        <祖先神>が孕む特異性と危うさ

          雑録:小説Aについて(2)

          前回、アマテラスとイザナミに比することができる(というか、ほぼそのままなのかも知れませんが)二人の女神のことを持ち出しました。 ところでこのところの私のイメージでは、アマテラスは視野と世間の狭い、あるいは発達障害の一面を持つ存在に育ってきています。その故に、なのでしょう。時として人の邪さを自らのものとして、ダークサイドへと転げ落ちていきます。こうなると、人の力では如何ともしがたいのですが、それを母神としてのイザナミが離れたところで陰ながら見守り、人知れず軌道修正を図ってあげ

          雑録:小説Aについて(2)

          黄泉比良坂(よもつひらさか)は上り坂か、下り坂か

          『古事記』『日本書紀』に記述のある黄泉比良坂(よもつひらさか)は、生者の住むこちらの世界と、死者の住む他界≒黄泉の世界の境目にある坂とされています。 ところでこの黄泉比良坂、果たして下り坂だったのでしょうか? それとも上り坂だったのでしょうか? おそらく最初に頭に浮かぶのは、地下へと入り込んでいく下り坂のイメージではないでしょうか? わたしも漠然と、そんなイメージを抱いていました。ですが現在、黄泉比良坂と伝承されているの伊賦夜坂(いふやざか。※松江市東出雲町揖屋)は山道。

          黄泉比良坂(よもつひらさか)は上り坂か、下り坂か

          雑録:小説Aについて(1)

          核心的なイメージとしてまず初めにあったのは、すべて奪う女神の姿です。 人々の崇め奉る思いや命を養分にして、醜く膨れ上がっていく、少々ダークなイメージです。安易なところで、アマテラスを質の悪い方へ歪めてみた感じでしょうか? ただもちろん、このイメージだけでは話になりません。そこであれこれ思いを巡らす中で、この女神も、最初から歪んだ存在であったわけではないだろうと。そこに至るには、それなりのストーリーがあったはずだろうと、そう思い至りました。 そこで、ストーリーを傍らで見守る

          雑録:小説Aについて(1)

          神々と人

          記紀を読んでいて、不思議に思うことがある。国土と神の誕生については執拗なほどに記述があるのに、人の誕生については、明示的なところが見当たらないのです。 そしてまた不思議なことには、でも、人がそこにいることは、前提のように話が進んでいくのです。 黄泉比良坂でのイザナギとイザナミのやりとりでは、人が一日に千人殺されたり、千五百人産ませたりと、少々物騒な話が出てきます。 また、スサノヲの乱暴は人にも被害をもたらしたとするような件も見受けられます。 はてさて。では神々と人間と

          神々と人

          作品完成の秘訣は、締め切りにあり

          締め切り―。どんな世界にも、当たり前のように蔓延っている言葉です。これに追われる身の、どれだけ切なく苦しいことか。限られた時間の中で、求められた品質をものするためには、それこそ様々なことを諦めなければならないのです。 ただ、人の常として、締め切りのようなものが控えていないと、いつまでものんべんだらりと先送りを決め込み、何ら成し遂げることが適わない、という次第に陥ることもよくある話。そうして考えると、締め切りというのは、有難いものでもあるのでしょう。 実際、私の知人には、う

          作品完成の秘訣は、締め切りにあり

          私の文章作法

          一言で文章といっても、その作法には色々とあるようです。 その昔、ある作家さんが「すべて決まってから書き始めるので、書き始めてからは早い」といった類のことを記しているのを読んで、ひどく感心したことがあります。すべてを空で書きとどめられるとは、と。 囲碁や将棋のプロ棋士たちは、かなり先の手まで読むことができるようですが、ちょうどそんな感じなのでしょうか? それに比べてこちらはと言えば、ただのアマチュア、ヘボな打ち手、指し手に過ぎないのですから、先行きのことなど、その都度都度

          私の文章作法

          雑録:小説Xについて(0)

          小説を書こうと、このところ妄想を逞しくしています。しかし現時点では野放図に湧き出す様々なアイデアが入り乱れ、もつれ合っているばかり。これらが一本の筋書きへと収斂するまでには、まだまだかなりの時間を要しそうです。 そこで、ならばいっそのこと、その過程、その彷徨う様をそのまま記してしまおうか? そうしていくうちには、自ずと終着点への道筋も見えてくるのかもしれない…などなどと、またしても安易な思い立ちに寄りかかることにしました。 もし仮に、作品のレベルにまでまとめ上げる試みに失

          雑録:小説Xについて(0)

          一生多事ブレブレ

          「一生一事一貫」。文字通り、一生を懸けて一つのことをやり遂げる、という意味です。 驚くべきことに、世の中にはこれを体現した御仁が少なくないようです。もちろん、その「一事」に辿り着くまでには、多少の右往左往もあったことでしょう。ですが、そこに辿り着いたそれからは、まさに一心不乱。その「一事」を貫き通したという訳です。 それに引き換え、この私。一生を通してあちらをちょこっと齧り、こちらをちょこっと齧り、一つとしてモノにはならず、それでも未だに思い切ることが出来ぬ脇目の振り放題

          一生多事ブレブレ

          思いやられた、この国の行く末【読書録】藤田早苗『武器としての国際人権』(集英社新書)

          このところ、様々な場面で「人権」という言葉が迫ってきているような気がします。そんな訳で手に取ってみたのが本書です。「武器としての」の意味合いも気になったのですが、なるほど、という感じです。 それにつけても、世界の目から見た日本の人権に対する意識が、ここまで遅れていようとは、と、ちょっと心配になりました。言葉の障壁で見過ごされているだけで、その筋の専門家の眼から見れば、ちょっと考えられないレベルにあるようです。 そうした意味では、やっぱり何と言っても島国ニッポン。相変わらず

          思いやられた、この国の行く末【読書録】藤田早苗『武器としての国際人権』(集英社新書)

          <象>に語り掛ける【読書録】ジョナサン・ハイト著、高橋洋・訳『社会はなぜ左と右に分かれるのか』(紀伊國屋書店)

          社会心理学者(道徳心理学)である著者は、デイヴィッド・ヒューム『人間本性論』の記述を引きながら、理性≒思考は、直観という<象>の<乗り手>に過ぎず、<象>が示す感情を正当化するためだけに働くと言います。 そしてまた、<乗り手>である理性≒思考がその正当化に失敗しようとも、主人である直観<象>は判断を変えはしないとも指摘します。 したがって、相手の行動を変えようと思うなら、<乗り手>である理性≒思考にではなく、その主人である直観≒<象>に語り掛けなければならないのだと言いま

          <象>に語り掛ける【読書録】ジョナサン・ハイト著、高橋洋・訳『社会はなぜ左と右に分かれるのか』(紀伊國屋書店)

          衆合論序説(0)

          衆合論が本当にモノになるかどうかはさて置いて、取りあえずは、現時点で想定している主な分析項目について挙げておくことにします。 ・衆合素:対象とする団体、組織を規定する要素群。例えば、宗教団体であれば経典や教理、政治団体であれば政治信条など ・衆合力:対象とする団体、組織の求心力や糾合力。例えば、専任者の数や、組織化の度合い ・衆合数:対象とする団体、組織のメンバーの数 ・衆合範囲:対象とする団体、組織のメンバーの存在する範囲 ・(衆)活動量:対象とする団体、組織の活動量。例

          衆合論序説(0)

          衆合論宣言

          「衆合」論とは、各種の団体や組織の成立基盤や求心力、その影響力などについて考えるためにこれから構築されることになるであろう、メソッドのことです。 「これから構築されることになるであろう」というのは、まさに文字通りのこと。提唱者がこの私で、まさにこれからその構築を試みようとしている段階に過ぎないからです。 私たちは、各種の団体や組織について述べる際に、それぞれの属するだろうと思われるカテゴリーに応じて考察を試みるのが常です。例えば宗教なら宗教団体として、政治であれば政党や政

          衆合論宣言