レジェンド推しがいつの間にか2.5次元になっていた話

※普段、BLを生産している人間が書いている文章なので、苦手な方はお気をつけください。

先日、こんなツイートを見かけた。


「レジェンド推し」、この言葉を見て私の頭に浮かんだのは、スクアーロという名の男だった。

 2004年から2012年まで、週刊少年ジャンプで連載され、アニメ化もされた『家庭教師ヒットマンREBORN!』。この作品の中に登場する、ボンゴレファミリーの独立暗殺部隊ヴァリアーに所属しているスぺルビ・スクアーロという男は間違いなく、まさしくレジェンド推しである。ざっくり彼のことを知らない人のために説明をすると、見た目は銀髪ロン毛、目つきは悪く、濁点のついたダミ声で叫ぶ。マフィアの御曹司たちが通う学校に彼らと一緒に行っていたらしく、子供のころから世界各国の剣術道場破りを繰り返していた天才剣士(これらの理由から、家庭は裕福なのではないかと推測している)。隻腕の剣士の剣術を理解するため、自分も腕を切り落とし、左手首から先は義手(ちなみにこの義手で剣をふるう)。ヴァリアーの入隊条件にあるため、複数ヶ国語を話すことができる設定。当初は敵として登場するが、後々は主人公側にアドバイスなどしてくれる面倒見もいいキャラクター。……というかなり主観も入っているけれど、情報がてんこ盛りな人である。ついでに言うと、こんなに優秀なのに、ヴァリアーのボスのザンザスという男に忠誠を誓って、少なくとも14歳から32歳までの18年間を共に過ごしていることが何よりの推しポイント。

 リボーンの連載は2012年に終わっている。今は全く違う作品で二次創作をしていて、私の中では過去のジャンルになっている。それでも、なぜかスクアーロと似たようなキャラクターを好きになりがちというところが、スクアーロが「レジェンド」たる所以だ。銀髪、ツリ目、口が悪い、能力が高い、プロ意識が高い、実家が裕福、誰かに忠誠を誓っている、なんだかんだ面倒見てくれる……このあたりの要素を複数兼ね備えたキャラクターを好きになることがとても多い。友人からは「スクアーロの幻覚を見ている」「スクアーロの未亡人」などと言われる始末。

つまるところ、気が付いたら舞台化していたんですよ


 リボーンの連載終了から7年がたった2019年のある日のことだった。最寄のコンビニエンスストアのガラス壁に貼られた張り紙が目に飛び込んできた。「リボステ」「チケット発売」の文字。確かに近年、すでに完結した過去作品のリメイク、キャストを変更して再アニメ化、舞台化などの話をよく聞く。あり得ない話ではなかった。でも、聞いてない、知らない、なんだ、なんだ、なんだこれ? 私はあわてて検索をかけた。
 舞台化、それもすでに第1弾公演は終えていて、次はヴァリアー編らしいということがわかった。確かに私の愛していたヴァリアーの衣装に身を包んだ俳優が並んでいる。推しを俳優さんが演じる、見に行かなくていいのか、そう問いかける自分がいる。その一方で、「今からチケット取れるの?」「どうせ仕事の予定が入るから見に行けないよ」という自分もいた。結局、私は後者の声を聞いて画面を閉じた。でも本当は違った。私は見るのが怖かったのだ。

 決して多くはないけれど、2.5次元を全く見たことがないわけじゃない。だから舞台化そのものに抵抗があるわけじゃない。
 また、誤解を恐れずに言えば、私はキャラクターを「生きている」とはあまり考えないほうである。あくまでも作品の中の登場人物として捉えて、物語上の役割を分析するのが好きだ。そしてアニメ化や舞台化の際にも、声優・俳優・演出家・脚本によってどのようにキャラクターが表現されるのか、その差異を考察することも好むタイプである。
 だからどこの誰がどんな脚本で演じようが、それはそれとして楽しめばいいはずなのに、私にはできなかった。スぺルビ・スクアーロは私の中で「レジェンド」なのである。解釈も煮詰まっている。私の中で、どこまでが私の勝手な妄想で、どこまでが原作なのかもはやあやしい。そこに舞台化であたらしいものを持ち込まれて、自分の中のスクアーロ像が壊されるのが怖かったのだ。まさしく、新しい発見によって自分の研究成果がぶち壊されてしまう研究者のような気持ちだ。
 実写映画でよくある改変・改悪もおそろしかった。自分の好きな作品がめちゃくちゃになっていたらどうしよう。ほかの作品の舞台化だったらそこまで恐れないことが、なぜか気になってしまった。そんなことで、私は何かと理由をつけて存在から目をそらして過ごしてきた。

 というところに、Twitterで目にしてしまったリボステ無料配信という言葉。24時間限定で、5月23日に第1弾、5月24日に第2弾を公開。
ここで見なかったら絶対後悔するという自分がいた。見ようと覚悟を決めた。だって、オンライン配信だもん。ちょっとずつ、薄目を開けて、ちょっとずつ見よう。大丈夫ならそのまま見ればいいし、ダメならやめよう。自分に言い聞かせること21時間。そう、24時間限定で、公演時間は2時間半。ギリギリのギリギリ、配信終了の3時間前に私はyoutubeの画面を開いたのだった。

※ここから先、しばらく内容の感想です


 最初にお芝居が始まった時は、バトルシーンの演出に慣れなくて、なかなか物語の中に入り込めなかった。そしてバジルを追ってスクアーロが登場したときは、「思ったより大丈夫」という気持ちと「まあ、こんなところか」という謎の二つの気持ちがあった。とりあえず解釈違いでは死ななそう、でも生身の人間の演じる戦闘シーンはこれくらいの緩慢さが出るよね、というどこか斜に構えた感想を抱いていた。

 それが変わりだしたのは修行パートが始まり、キャラクター同士の感情が見え始めてから。やっぱり少年漫画が好きだから修行パートが好きなんだな、私。コロネロと了平、シャマルと獄寺の師弟の会話くらいから、ああ、そんな話だった、リボーンという作品のそういうところが好きだったんだなって記憶が思い起こされて、作品の内側に入っていくことができた。
実際に、リング争奪戦が始まると、冒頭で感じた緩慢さはどこへやら、殺陣が素晴らしかった。ぐっと手を握ってボンゴレを応援してしまう気持ちと、大好きなヴァリアーの一挙手一投足を見つめたい気持ちで右往左往。

 そして、肝心の雨戦が近づく中で、私が「これはスクアーロだ。スクアーロが“いる”」と確信したのはじつは、回想の仔鮫のシーンである。同じ成人男性の俳優が演じているはずなのに、なぜか14歳の幼いスクアーロに見える。一つ一つのセリフが、忘れもしない原作の記憶と重なる。14歳のクーデター前のスクアーロは、ザンザスが本当はボンゴレの御曹司ではない、とは全く知らない。ザンザスの夢のために、自分の剣技で貢献できると何も疑ってない。屈託なく笑う。その表情が、セリフの言い回しが、あまりに理想のスクアーロだった。
 そして、回想するザンザスが全く瞬きをしないことに驚いた。鋭い眼光でまっすぐまえを見つめているのにぞくぞくした(ちょっと、こんなに目をかっぴらいて大丈夫なのかと、カラコンすごいなとか思ってしまったが)。ザンザスって寡黙なんですよ。不要なことは喋らない。だから彼の表情の一つ一つが物を言う。それをまざまざと見せつけられた。映像だから顔がアップになるので、なおさら強く感じたポイント。

 雨戦を見ながら、自分が思ったより原作を覚えているなとちょっと驚いた。スクアーロの義手が逆向きに曲がるところがなかったのだけ残念。まあ、演出上無理だからね、役者さんは義手じゃないから。

 私がとても印象に残ったのは山本の表情の変化がだった。10年以上前に原作を読んでた時って、山本ってよくわからないな、お気楽でちゃらんぽらんだな、って思うところも無きにしも非ずだった。でも、最後にスクアーロに指摘される、甘さ、それはある意味の優しさだと思う。それを脚本がよく昇華していて、さらに役者さんがよく演じてくれている。ふわっと笑うじゃないですか、生死をかけた戦いの中なのに。みねうちを責められたときも、戦闘後にスクアーロを助けようとするときも。命を奪いに来たのではない、勝負に来たというスタンスを崩さない。その直後に真剣な顔もするんですよ。彼は原作でも野球も剣も捨てないって言う。覚悟とやさしさを併せ持つことをやめない。そんな山本武をぐっと引き出してくれた。スクアーロが大好きだけど、それ以前に雨戦そのものが好きだったということを思い起こされた。なぜ時雨蒼燕流が完全無欠なのかに気が付いて、父親の作った型と自分の作った型で相手を破るっていう、自分の親と剣術に誇りをもって戦うところがすがすがしい。
 一方で、スクアーロは回想の14歳の時とは違った表情をする。原作よりも、どことなく優しさがにじみ出ているようにも見えたけど、でもいっさい容赦はしないところがまさしく彼。山本を追い詰めるところで、容赦なく蹴りで攻撃したところが一番ぞくぞくした。だって、あの男、確かに剣士だし、剣が大好きで百番勝負とかするけど、それより前にプロの殺し屋なんですよ。たぶん、剣と足技を組み合わせる剣術に出会ったら「なるほどなあ゛あ゛」とか言いながら、潰して自分のものにしてきたんだと思う。そして、助けようとする山本を振り切って鮫に食われるシーン。甘さを捨てろ、この先も剣士としての覚悟を山本にスクアーロは問い続ける。その一つ。確かにザンザスに忠誠を誓っていて、彼のために髪を伸ばし、ヴァリアーのボスの座も渡し、殴られながらも常にともにいて、そして秘密を守っているスクアーロ。でも、同時に剣士であって、その誇りも絶対捨てない。だから無様なすがたは見せない。

 そして、そのあとのザンザスの表情がアップになるところで息を飲んだ。俯いて無表情に時間があってからの爆笑。原作が今、手元にないんだけど、割とすぐ笑いだしていた印象があるんだよね。あの間を持たせた演出に私は感謝したい。自分を8年間待ち続けた男の死に、何も思わないのが原作当時のザンザスだと思ってて。でも我々は、その先の物語も、その前の物語も知っている未来の人間で。リボステはこの未来で作られた作品で。だからあの間が生まれたんだと思う。それを良いととらえるか、悪いととらえるか人によるけど、私は嬉しかった。

 そこから先は一気に進んで、OPでも聞いたはずなのにEDでBoys&Girlsが流れたところですっと涙が落ちてきた。ああ、私が知っている原作が、アニメが、きちんと再現されて、なおかつ新しい解釈で届けられたんだって実感した。あと、挨拶までスクアーロで演じ続けてくれたことに感謝。あの言葉選びがまさしくスクアーロだった。あの瞬間が最後にして、最大の、スクアーロが三次元にいるを感じた瞬間だった。

結論:大丈夫だったんですけど、大丈夫だと思えるまでが大変だった


結局、舞台化したところで何も恐れることはなかったんですよ。推しはそこにいたし、何なら新しい解釈も与えてくれた。じゃあ、私があの時、現地に行ってステージを生で観劇すればよかった、とも実はあんまり思えない。これは私自身の問題で、私にとって映画や演劇全般がかなりハードルが高いコンテンツだったりするからだ。一度始まったら基本的に外に出られないという状況が心理的につらい。でも実際は、外に飛び出したくなったことなんてほぼ無いし、だいたい楽しかった!って帰ってくるんですけど。ジェットコースター乗る直前の心理に近いものがある。だから、絶対に楽しめるという確信がないと重い腰がなかなか上がらない。ネタバレというかあらすじを読んで、信頼できる友人からすすめられて、やっと映画に行く勇気が持てるような私にはやっぱりチケットを取ることはできなかったと思う。
 なので、時間限定のオンライン公開で「これを逃したら見られないよ!」と追い詰められたうえで、「動画だから最悪、途中で止めても平気だよ!」という状況で、やっと見ることができたのだ。

 という、特にオチも意味もなく、推しが突然舞台化してしまってどうにもならなくなって一喜一憂したただのオタクの話でした。第4弾はどうやら小説の舞台化なんですよね。実家にあるはずなんだけど。あの表紙のスクアーロが美しくて美しくて大好きなんだ。今度こそ、仕事でどうやっても見に行けなさそうな日程。円盤を買う勇気は出るかなあ、数か月先の自分を励ましたい。


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