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現在が過去を「再編成」する。歩みを止めなければ、傷は癒える

前回のnoteでは、自分が大事にしてきた「言語化」について得た気付きを表現させていただきました。

その気付きの元となった近内悠太さんの「利他・ケア・傷の倫理学」という書籍を通じ、もう一つ、「大きな学び」を得ることが出来ました。

それが、「自分の心に傷を負った時に、ヒトはどうすればいいのか(どうするしかないのか)」ということ。

この結論は「傷を負っても、辛いことがあっても、踊り続ける=行動し続けるしかない」というシンプルなものですが、その論理展開が非常に納得できるものであり、これからの心の支えになると確信しています。今回は、本書のまとめと、私個人の話を少しさせてください。

「過去は再編成できる」という考え方

「過去⇒現在」だと思って生きてきた

この「利他~」を読むまでは、「過去が現在を規定する」もの、言い換えると、「過去は決して変えられないもの」として捉えていました。

こうやって文字に直すと、これはとても自明なことのようにも思えます。タイムマシンが発明されない限り、過去を「再体験」出来ないのですから。

後述しますが、私は「過去に後悔があり、その過去は変えられない。だからイマを頑張るんだ」という思想を元にエネルギーを生み出し、今日まで全力で走ってきました。

ですが、ふと立ち止まって考えてみると、唯一無二のものであるはずの「歴史」も、人によって解釈が異なりますよね。

「ミステリと言う勿れ」では久能整くんが『(過去の事件における)真実は人の数だけある』と言っていましたが、まさに「過去」というものが兎に角不確かで脆弱である、ということを端的に表現していると思います(事実と真実は違う、というのが彼の主張であり、その通りだと思います)

(ミステリと言う勿れ 第一巻より)

過去が「正解だったことになる」

近内氏は以下のように述べています。

・『現在と未来が原因となって、過去が結果になる』
・『現在を懸命に生きることで、過去に介入することが出来る』
・『「正解だったことになる」という形の、遡及的・事後的な正解はちゃんとある。

ここに書かれた文脈を全て理解していただくには、本書を読んでいただくしかないのですが、端的に言うと、以下のように纏められると思います。

「過去のある辛い出来事は、とある瞬間まではただの"傷"であったにも関わらず、”とある現在”を迎えた時に、その"傷"が自分にとって大切なイベントに変わる、という物語の再編成が起きる」

久能整くんの言葉を借りれば、「事実は変わらないが、真実が変わる」ということです。

私はこの考え方に大きな希望をもらいました。なぜなら、「つらい過去」というものは、「死ぬまで抱えなければならない重石」のようなものだと思っていたので、それが「再編成可能」である、と思えただけで、とても気が楽になりました。

ただ、ここからが厳しいパートです。近内氏は「”何もせずに”再編成される」ことはないし、「再編成"する"」ことも出来ない、と述べます。

とにかく「踊り続ける」しかない

「セルフケア」は不可能。「上書き」は出来ない

本書における一つの重要な概念に「ケア」というものがあります。この定義は「その他者の大切にしているものを共に大切にする営為全体のこと」とされています。

つまり、定義から考えて「セルフケア」というものは存在しない、ということになります。

誰かが「今のあなたは何も間違っていない」という存在の肯定をしてくれて、初めて過去が再編成される。残念ながら、自分で自分を肯定することは出来ない。

なぜなら、過去に生まれた「自分の中での真実」は既に存在してしまっているから。それを「上書き」しようとしても、その下にある真実が見えてしまう。「上書き」ではなく「再編成」が必要なのです。

結局は「行動」あるのみ、という残酷な事実

では、そんな「再編成」が起きるような他者とのイベントを迎えるにはどうしたらいいのか。

本書では、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」を引用し、「踊り続けるしかない」と説きます。

踊り続けていれば、行動し続けていれば、予想だにしない邂逅が生まれ、過去が再編成される。

どれだけ部屋で一人思い悩んでいても、机に伏していても、残念ながら何も起きない。ヒトはヒトと出会うことでしか肯定されない、ケアされないから。

辛いことがあった時、外に出たくない・人と会いたくないと思うのが自然でしょう。でもそれではだめなんだと。勇気をもって、踊らなくてはならないんだと。さすれば、きっと過去は再編成される。

とても残酷ですよね。でも、それを容赦なく突き付けてくれたからこそ、私は次の「つらい時」に、すぐに行動に移せる気がしています。

今まさに、「再編成」されている気がする

私の「抜けない2つのトゲ」

私にとっての「上書きしようとして出来なかった過去」は大きく二つあります。

1つは、小6で太り、そのまま大学生まで太り続けたこと(以下写真参照)。この多感な時期に自分のルックスを軸に自信を失い、自分に強い劣等感を持ってしまったことが今の性格を大分形作っていますし、やり直せるならやり直したい過去です。

もう一つは、大学時代。一念発起して体育会卓球部に入り、4年間やり通したものの、自分の中では「めちゃ太ってた自分が20kgも痩せて、週6で練習やってる」ということに達成感を覚えてしまい、小さな言い訳を搔き集めて、「死ぬ気で努力しなかった」こと

今思い返しても、心の奥底が「チクっと」します。ここでやり切っていたら、もしかすると一つ目の過去は再編成されたのかもしれない。でも「踊り続けなかった」から、傷が傷のまま残り、新たな傷を作ってしまったのだと思います。

「承認」してくれる仲間たちに支えられて

僕は「変えられない過去への後悔」をエネルギーに走り続けてきました。やりきれなかった大学時代と同じ後悔を繰り返したくない、その想いだけで今日までの15年間を過ごしてきた気がします。

そんな私は今、150人が勤めるセルソースという会社で、経営企画・HR・IR・M&A・海外・・・・多くの領域を管掌させてもらい、日々多くのメンバーと一緒に仕事をしています。

「経営」というものに携わったことも無かったですし、M&A以外の仕事はほぼ初めまして。それでも2年間、とにかく走り続けてきました。

そんな今、セルソースメンバーのみならず、前職の住友商事の仲間、多くの社外の方々、そして家族。多くの人からの「今の細田薫という人間そのもの」に対する「承認」「肯定」をいただいていると感じています。

初めて太ってから25年、大学卒業から15年。

今、皆様のおかげでようやく「再編成」が始まった気がします。

でも、踊り続けるしかない。このnoteも、ちゃんと書き続けます笑

いつも私のnoteを読んでくださる皆様、本当にありがとうございます。

おわりに:「選択的忘却」の威力

本編に入れようと思いましたが入れられなかったので、こちらにて。

「踊り続けるしかない」としても、辛すぎるダメージを負った時、わかっちゃいても出来ない。どうするんや、と思っていたところで外山氏のベストセラー本「思考の整理学」を読み、自分なりの仮説が出来たので、シェアします。

この本は、タイトルは「思考」ですが、以下の表現にある通り、肝は「忘却」にあります。

「知識はものを考えるときの「敵」であり、本当に頭を働かせるための近道は忘却を「味方」につけること。忘却を恐れない」

人間の忘れる能力はとても「高級」に出来ていて、有用なものは忘れず、無用なものを忘れる。これが「選択的忘却」。コンピューターは「全面的忘却」しかできないから、思考力に欠けると説きます。

これがまさに今回の話に繋がってくると思いました。

つまり、人間の脳はなぜつらい記憶を抹消するように作られていないのか。なぜ全面的忘却を発動させるよう進化しなかったのか。

それは、「再編成を待っているから」なのではないでしょうか。

でも、ただ「残しておく」だけだと、ヒトは踊り続けられない。だから、「ノスタルジー」という精神活動も実装した。心の負担を徐々に軽くして、躍らせる。そして、いつか再編成させる。そうすることで人は重層的になり、より豊かになる。

忘却を味方につけ、過去を上書きしようとせず、踊り続け、再編成を待つ。

こういうことだな、と自分ではしっくりきました。皆さんはいかがでしょう。

では、また来週。

細田 薫


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