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一生懸命生きるとは…生きることに必死だったあの頃の私。バイト人生④〜不登校•引きこもり•非行をへて、国家公務員へ〜

ここから珈琲屋兼パン屋さんの
バイト生活が始まります。

2年くらい勤めさせて頂きました。
自分と闘うのは正直きつかった。
何度も挫けそうになった。
辞めたくなった。
でも大きく成長できた。
そんな2年間でした。

珈琲屋に入り、
私正直にいうと
仕事を舐めてました。
喋りながら楽してお金を稼げると。

郵便局を乗り越え調子に乗ってた部分もありました。
正直言えば『要領がいいって。』
先輩に言われた言葉。

「普段は仕事しないけど、
 ここぞの時だけ、売るよね。
 自分が困ったら
 私達に上手に頼ってくるよね。」
って事だったんだと思います。

今考えれば楽してお金を稼げるような仕事は
一つもないんです。
でもそれに気づいていませんでした。

元々頑張るのが昔から得意ではなく、
楽な方楽な方に行く性格で
お調子者でした。

勤務形態は朝8時半から17時まで。
月曜から金曜。
アルバイトというよりパートでした。

私元々人と喋るのが好きなんです。
でも喋りながら仕事が出来るほど
器用じゃない。
喋るのは好きだけど、饒舌ではありません。
だからワンクッションいる。

それなのに仕事中、いつも先輩に話しかけ、
あまり仕事をせず、
1日を過ごしていました。

当然怒られます。
でも、怒られたらその時だけ
落ち込みはするけど、
治そうとはしない。

先輩や社長や奥さんと
言い合いになることもありました。

色んなことがおこり、ひねくれていた私。
そんな生意気な16歳でした。

当時はクビになってもおかしくなかった。
それでもどうにかこの子を
治してあげなければいけない。という。
社長や奥さんは思ってくれていたのだろうなと
あの時は気づけなかったけど、今は思います。


お昼と夕方以外、誰とも喋らせないように、、
最初のうちは除け者にされたようで辛かった。
でも、その環境を作ってくれたから
お金を稼ぐのは楽ではないというのを
教わりました。

朝はみっちり4時間、
発酵したパン生地を捻り
捻りパンにして、
一つ一つバットに並べ
すごい大きい250°近くの
オーブンにいれ、
焼き上がったパンを畳半錠くらいの
板にのるだけのせる。
そして棚に置く。

夏なんてエアコンもない。
あるのは出入り口のドアと、
小窓ひとつくらい。
体力勝負でした。
夏は暑くて暑くて熱中症で倒れそうに
なりながら仕事をしていました。

両手はバットで器用に仕事が出来ないから
火傷でただれていた両手首の無数の傷。

昼休みを終え、夏に1人で37℃の
炎天下の日差しの中、
外に並べられた
終わりの見えないバットの数。
そのバットを3時間くらい
ジェットの洗浄機で
永遠と洗っていました。

ジェットの洗浄機でまた手首を
切ってしまったことがありました、、
滴る血。
それでも痛みを堪え洗い続けました。

たまに同僚の先輩方が心配して
キンキンに冷えたジュースや絆創膏の差し入れ等を
持ってきてくれたこともありました。

それから2時間くらいは
珈琲屋の直売所で
包装をしたり、
珈琲を買いに来てくれたお客さんに
珈琲豆を焙煎したり、真空パックにして
売っていました。

接客が苦手で、あがってしまい
お客さんに、『別の人だして!』と
怒られる事もありました。
その頃、私が覚えられるわけないじゃんと
開き直っていました。
でもそう思ってても、
人に否定されるのは
やっぱり辛いんですよね。

同僚の人たちともたまに険悪なムードに
なり、そういう雰囲気を
受け流す事ができず、
全て受け止めてしまって。
すぐ心のタンクの水が一杯になり
溢れ出てきて、
精神不安定になったこともありました。

お昼休みはご飯も食べず
半泣きになり会社を飛び出し
田んぼ道でとぼとぼ歩きながら
ベンチに座り、
『私は何でいつもこうなるんだろうか?』
『何が悪かったんだろう?』と
いつも考えていました。

仕事から家に帰るのに
電車を2本乗り継ぎ
楽しそうに話をしながら
すれ違う高校生たちを見て、
『同じ歳なのになんで私だけ…
こんなことをしているんだ』と
思ったこともありました。

入って数ヶ月、そんな事が続き
また逃げたくなった私。
逃げたくて逃げたくて。

仕事から家に帰ってきた母に泣いて、
『辞めたい、辞めたい』と
言っていました。

母はいつもの如く困っていましたが、
この時ばかりは違いました。

『辞めたいなら、もうやめればいい。
 でもね。その理由が人間関係なら
 逃げたらいかん。

 また辞めたところで
 同じような場面がまた絶対くる。
 そうなった時に、その度に、
 ひーろは逃げらないかんくなる。
 その度にまた辞めらないかんくなる。
 何処行っても、
 たとえ仕事が変わろうとも
 いい人も居れば悪い人もいる。
 気の合わん人もいる。
 みんなから好かれたいなんて無理なことよ。

 それとね…

   いつまでも親が生きてるって思ったらいかん。
 パパもママもひーろより先に逝くんだから。
 ひーろはこの先、地に足つけて
 1人でしっかり生きていかなきゃいけないんだよ』

と言われ、かけられた言葉は
思っていた言葉とは違くて、
すごくムカついて、
また喧嘩になり、ご飯も食べず、
自分の部屋に籠り頭を冷やし、考えました。

『そっか、私はずっと人に、
自分に、負けてきたんだ。
ここで負けると、私はまた同じことを
何回も何回も繰り返す。それは絶対嫌だ。』

ここからは何かが弾けたように
仕事にも真摯に向き合うようになっていき、
気づけば1年の歳月が経っていました。

先輩達ともその頃には楽しく会話できるようになり、
仕事が少しずつ楽しくなり、
最初の頃とは人が変わったかのように
黙々と仕事をしていました。

ロッカーでいつも優しい
綺麗な先輩に言われました。

『最初入ってきた時ね。
ひーろすぐ辞めるかと思ってた。
でも続けれたね☺️正直驚いてるよ』と。
いつも、なにかと
気にかけてくれていた先輩でした。

その一言が当時どんなに嬉しかったことか。

でも、また不安定な時期が訪れました。
毎日毎日単調な仕事をし、
窓から見る風景はいつも一緒。
体力的にもハードな毎日。

「働いても働いても10万弱しかもらえない。
私の人生はこのままで終わってしまうのだろうか。」と。

不安に駆られ、
こんな人生、生きていても何も面白くないと。
でも、自分が辞めたところで
学歴も資格もない私が
どこへもいけやしないと。

そう思い、数ヶ月がたち、
心身ともに悲鳴をあげていたのでしょう。

「負けたくない。負けたくない。
逃げたら、ずっと逃げなきゃいけないんだ。」

ずっとずっと言い聞かせてきました。

「きつい。休みたい。だるい。」
そう思う気持ちを殺してきました。
「このままでいいのか。」と
疑問を抱き続けていました。

そんなことを来る日も来る日も
考えました。

ある朝、左手首に湿疹がではじめ、
日が経つごとに爛れていきました。
母は心配し、病院に連れていってくれ、
皮膚科を4軒まわりましたが原因不明。

微熱が続き、内科にいっても原因不明。

血圧は下がり、65/47
病院の看護師さんは驚き、
『えっ!もう一回測っていい?』と言われ
測ってもらっても、結果は同じ。
『大丈夫?フラフラしたりしてない?』と
心配してくれたけど、
不思議とそんなキツくはなかったんです。

そんな状態で、『今日休んだら?』
と止める母を背に『いや、行く』といって
仕事に、出かけていました。

「負けたくない。馬鹿にされたくない。
這ってでも仕事に行ってやる」と言う気持ちで
来る日も来る日も仕事にいきました。

身体はついていってないけど、
なんとか毎日、精神力で
繋ぎ止めてました。

でもそんな矢先。
ある出来事が起こってしまったのです。




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