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 戦国・江戸時代のお金の歴史


 江戸時代は近・銀・銅を使った、三貨幣制度であった。ややこしいのが、、地域によって異なること。 
 名古屋と金沢を結んだ線より東側の東日本は、金の貨幣を使用していた。いわゆる「金遣い」。
 一方、西日本は、「銀遣い」で、銀の貨幣が流通していました。
 なぜ、東西で違うのか?
 東日本はの金遣いは、佐渡や伊豆、伊達政宗のいた陸奥の金、武田信玄の甲州金などに代表されるように、東日本には金を産出する金山が多かった。
 そして、江戸幕府を開いた徳川家康が
武田信玄の甲州金の貨幣制度を取り入れ、贈答褒美などに金を用いた。
 一方の西日本はなぜ銀なのか。これは、東側と同様に、兵庫の生野銀山、島根の石見銀山など、近畿から中国地方にかけて存在する鉱山の多くが銀山だった。
 それとは、別の理由がある。
江戸時代、鎖国前から、貨幣制度が
出来上がっていた。
 西日本は海を通じて、大陸とつながっていた。中国との貿易をしなければ、
ならなかった。中国では、明や清の時代には、銀錠という馬蹄銀の銀貨を使っていた。ボリビアのポトシ銀山から流れ込んだ大量の銀が、中国経済を活性化してした。そのため、当時、東アジアじゅうで貿易の決済には、銀が使われていた。
 戦国大名は、火薬の原料となる硝石を、女性たちは着物の原料の生糸を主に、海外から輸入していた。
 当時の生糸は輸入品。そうなると、
貿易決済をさるには、銀が必要だった。
そのため、西日本には銀山もあるということから、銀遣いになった。
 しかし、実際の日常生活で、江戸の庶民は小判や丁銀は使っておらず、武士も使っていなかった。商人の蔵にしまわれていた。
 普段、使われていたのは、「銭」である。主に銅でできたものであった。

 今回は、お金の歴史でした。

 この記事は、磯田道史先生の記事によります。
 ありがとうございました。
 
 
 
 

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