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晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ②

 山岡鉄太郎(鉄舟)の一番のハイライト、その行動力、胆力を示したのが、明治戊辰の朝廷の駿府の大総督府への往還である。
 鳥羽伏見の戦いで、薩長に敗れて、
徳川慶喜は江戸に帰り、もっぱら恭順謹慎の意を表していた。しかし、部下に不平の徒輩ありという風聞があった。
 薩長は、新政府を京都に樹立し、大総督府として、兵を進め、駿府に着いた。
 徳川氏の吏員、旗本八万騎といわれる武士、ただ、いたずらに議論に終始して、なんらかの方策をするものは、一人もいない。
 鉄太郎、ここに決然、身をもって、
この難局に当たろうとした。
 まず、慶喜の真意を聴くため、面謁をこうた。慶喜、蕭然として、また、
朝廷への恭順謹慎の赤心を告げる。
 鉄太郎、深く慶喜の誠意を洞察して、
必ず公の清実を徹せん事を期すと、誓った。
 鉄太郎が思うのは、官軍の営中に赴いて、大総督宮に謁し、慶喜の誠意を訴える他はない。江戸市民百万に代わって、
官軍により、命を落とすことがあっても、男子の本懐とした。
 この説を幕府の重臣に諮ったが、容易に決しない。
 ついに、軍事総裁の勝海舟を訪れた。
海舟は、鉄太郎の誠意に動かされて、
その挙を喜んだ。
 海舟、官軍の営中に入る覚悟を鉄太郎に糺すと、鉄太郎は斬られるなら斬られよう。ただ殺される前に、一言、総督宮に慶喜の真意を言上せしめよう。こうでれば、官軍もみだりには人を殺すものでもあるまいと答えた。
 勝海舟、これを聴いて大いに悦服した。薩人・益満休之助を鉄太郎と同道させ、駿府に征きて、西郷隆盛に会するための文書を与えた。鉄太郎、勇躍して駿府を臨んで馳せた。
 駿府への道は、鉄太郎、総督府に嘆願のすじあり。我は、徳川慶喜の臣であると、大声疾呼しながら、間道を通らず、公然本道を進んだ。
 鉄太郎、駿府に着いて、西郷隆盛と会見した。鉄太郎、西郷に、先生の軍事をつかさどるのは、人を殺すためであるか、はたまた、乱を鎮めるためあるかと問うた。西郷答えて、固より乱を鎮めるためである、と。鉄太郎、進んで、慶喜の誠心唯恭順に在る事を説き、戦を企てる輩は慶喜の真意をくんでいない鼠族で、徳川氏と関係なき者であることを、ねんごろに語った。
 慶喜、既に誠忠無二の心を朝廷に貫徹せしめんがため、我に命じて、此処に使いせしめた。おおよそ、不逞を誅するこそ、王師(天皇の軍隊)であると言えるが、謹慎精忠の者を殺す事あらば、
それは王師であるとは言えぬと。
 思い溢れて、その誠実金石をも透すようだった。
 西郷は、思うところあり、総督府に言上してみようと言った。
 総督府の命令は、五箇条あった。
江戸城を渡すこと。兵器、軍艦を渡すこと。城兵を郊外に移すこと。その他に、
慶喜を備前に幽閉する項目があった。
 鉄太郎、その最後の項目を強くこばみ、先生(西郷のこと)が、その藩主を他処へ幽閉されたら、安座していられるか、この鉄太郎は、死すといえども、耐えることができないと、熱い涙を流し、
言語、血を吐くようであった。
 西郷沈思して、そのこと、誠に理がある。我、必ず慶喜公のために計ろうといった。
 こうして、西郷隆盛と勝海舟との江戸城、無血開城の歴史的会談のまえに、
山岡鉄太郎(鉄舟)という一人の男が、敵地にのりこんで、話をまとめてきたというのは、あまり、知られていない。

 この鉄太郎(鉄舟)、剣と禅で一境地を開き、無刀流と名付けた。その鉄太郎の境地をうかがえる句がある。

 晴れてよし曇りてもよし富士の山 もと姿は変わらさりけり

 その鉄太郎、自分の死期を予見し、死ぬ前に、 経典を写し、数百字を書した。筆勢少しも乱れず、平常の風があった。そして、座禅を組み、夫人を顧み、
微笑を含みつつ、永眠した。
 五十三歳であった。


 



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