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晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ①

 鉄太郎の家は、世々幕府に仕えて、
 禄600石。
 鉄太郎、12、3歳の頃、剣道の諸大家の門を歴遊し、浅利又七郎に逢って、
親しく其教えを受けた。
 浅利又七郎、伊藤一刀斎の流を汲んで、すこぶる剣技に達していた。殊にその突きの術は精妙正に神技とも称すべきもので、常勝将軍の概があった。
 鉄太郎、其門に入りて練磨刻苦、
例えば、鉄太郎、黙視多時、竹刀を擁して自ら眠りにつく頃を窺って、師は俄に突撃してこれを撃つ。鉄太郎跳ね起きて、竹刀声あり、これに応じた。
 師、その胆勇努力を愛した。このように、特殊に、導き助けることをなしたからその技、すこぶる進んだ。
 加えて、腕力、衆に秀でて、鉄太郎と
 闘う者は、往々にして挫傷を受けるため、「鬼鉄」の名は、剣客の間で、有名になった。しかし、鉄太郎、剣技は
大いに進歩したが、師の前に立つと、
師の剣尖常に我喉をうかがって、如何ともすることが、できなかった。鉄太郎、
更に、奮励した。

 鉄太郎の生家は、小野氏である。
 山岡氏を継いだのは、山岡静山の嗣となったからである。静山は、江戸府内に肩を並べる者がなかった名槍家だった。
 その静山、27歳で亡くなった。その
次弟の精一も槍法の妙域に達し、後に、
槍一筋で伊勢守を叙任せられた程の達人であった。しかし、精一は、已に高橋家の養嗣子であるから、山岡の名跡を嗣ぐ
その人物が欠けていた。
 精一には、適任者として小野鉄太郎と思っていたが、小野家は高禄、山岡家は小禄であるから、悩み、鉄太郎の弟、兼五郎に打ち明けた。
 鉄太郎、この知己の言葉を伝えきいて、感激し、山岡静山先生の後嗣を希望すると伝え、精一の妹、英子(ふさこ)
と結婚し、山岡鉄太郎と称した。

 幕府は、浪士を集めた。新徴組である。その統率者に高橋精一に任せた。
諸浪士はよく服したが、鉄太郎の奔走が大きかった。新徴組の首領は、清川八郎、石坂周三、村上俊五郎、大館健三郎等であった。
 清川八郎は、鉄太郎と共に千葉周作門下にいたことがある。高橋精一に槍を学んだ。新徴組の領袖の一人で、尊王攘夷の志があった。その清川が暗殺された。
 清川の横死を聞くや、鉄太郎は石坂周三と共に急いで現場に赴いたが、警吏既に屍体を戒厳して近づけなかった。
 鉄太郎、石坂に命じ偽りに狂者の真似をなさしめ、被髪跣足の異姿で、その屍体に近づき、『この漢は吾の不俱戴天の仇であった、行方を求めていたが、今、天佑あって他人の手で斃れた、愉快愉快』と大呼しつつ、刀を抜いてその首を切り、懐中を探って、重要書類を収めしめた。共に、相携えて、清川の首級を鉄太郎の邸内に埋め、後に寺院に葬り終えた。

 鉄太郎の侠名が流れて、諸浪士の来りたすけを求める者、門に絶えなかった。

晴れてよし曇りてもよし富士の山
山岡鉄太郎(鉄舟) ②  に続きます。 



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