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毛利家の外交僧 安国寺恵瓊      

 世にも、不思議な大名がいた。

 鎌倉以来、安芸一国(現・広島県西部)に号令してきた守護大名・武田氏の直流に生まれ、下剋上の風波を受けて、
お家騒動の最中を毛利元就に付け入られ、ついに実家は滅亡。四歳の遺児となったその子は、家臣にともなわれて安芸安国寺(現・広島市東区)に逃げのびた。青年僧として、成長し、臨済宗の五本山の一・東福寺(現・京都市東山区)の名僧の竺雲恵信の弟子となった。
 師の一字を得て、諱を恵瓊(えけい)
と称す。彼は京に上って学問を積み、中央の五山禅林との人となって、さらに
修行を重ね、「首坐(しゅそ)」の地位にのぼった。
 三十代に安芸安国寺の住持をかね、
「安国寺恵瓊」と称する。
 この恵瓊が、その名を天下に知られるようになったのは、「(今は勢いがあるが、いつか)高転びに、あおのけに転ぶ」と織田信長の末路と豊臣秀吉の将来を、書簡で見事に予言した頃からである。
 中国地方十カ国をほぼ、制した毛利家では、朝廷や将軍の住まう京都をはじめ、諸国の外交上の交渉ごとを、尊崇する僧侶に委託する方法が半ば公然化していた。
 恵信がその長官であり、弟子の恵瓊もそれを手伝い、やがて後継者になった。
 抜群の頭脳と淀みない弁舌をもつ彼は、また、目的を達するまでの根気により、外交の相手をときに屈伏させ、ときに感動させ、確実に外交僧としての実績を積み、毛利家において独自の地位を築いていく。
 信長の中国征伐については、小早川隆景が戦いを回避しようとし、恵瓊が外交を担当して、中国方面司令官の羽柴秀吉との講和を実現した。
 おりから本能寺の変が起こり、秀吉が
 中国大返し を演じるのだが、恵瓊は
秀吉の将来をみこして、これに同調。
 恵瓊の凄味は、毛利家に仕えるだけで
満足せず、秀吉に接近し、自らが独立した大名となったところにも明らかであった。
 秀吉の四国征伐で、小早川隆景は伊予(現・愛媛県)を与えられ、恵瓊は領内・和気郡に二万三千石を分与される。
 その後、六万石になった。伊予のほか安芸安国寺に与えられていた一万一千五百石があり、東福寺住持として采配。
南禅寺住持ともなり、彼は、中央禅林最高の位をきわめた。
 当時のわが国における、最高の学識といっても過言ではなかった。

 僧でありながら大名であり、同時に毛利家の政治・外交顧問で、さらに豊臣政権の頭脳(ブレーン)でもあった恵瓊が、秀吉が死んだあと、近江佐和山(現・滋賀県彦根市)に蟄居中の、石田三成のもとへ急行した。しかし、
天下分け目 の関ヶ原の戦いは、周知のごとく東軍=徳川家康の圧勝におわってしまった。
 恵瓊は、京都六条河原にて処刑された。
 享年は、六十二、または六十四とも
いわれている。

 この文章は、尊敬する作家の加来耕三先生の記事を、多数、引用しました。
ありがとうございました。




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