樋熊克彦

趣味は、歴史、特に満洲を研究しています。あと、戦国と幕末が好き。  エッセイを書いてい…

樋熊克彦

趣味は、歴史、特に満洲を研究しています。あと、戦国と幕末が好き。  エッセイを書いています。 英語・中国語を勉強中。 陶芸は、始めて1年。 クラシック、特にピアノ、ヴァイオリンが好き。JAZZ、J-POPも好き。

記事一覧

 織田信長と地球

 織田信長は、ヨーロッパ人宣教師から 地球儀を貰い、地球は球体だと理解していた。これは有名な話。だが、重要なのは、信長がこの知識を家臣や子どもに 教え、広めようと…

樋熊克彦
6日前
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晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ②

 山岡鉄太郎(鉄舟)の一番のハイライト、その行動力、胆力を示したのが、明治戊辰の朝廷の駿府の大総督府への往還である。  鳥羽伏見の戦いで、薩長に敗れて、 徳川慶喜…

樋熊克彦
13日前
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晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ①

 鉄太郎の家は、世々幕府に仕えて、  禄600石。  鉄太郎、12、3歳の頃、剣道の諸大家の門を歴遊し、浅利又七郎に逢って、 親しく其教えを受けた。  浅利又七郎、…

樋熊克彦
2週間前
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毛利家の外交僧 安国寺恵瓊      

 世にも、不思議な大名がいた。  鎌倉以来、安芸一国(現・広島県西部)に号令してきた守護大名・武田氏の直流に生まれ、下剋上の風波を受けて、 お家騒動の最中を毛利…

樋熊克彦
3週間前
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 戦国・江戸時代のお金の歴史

 江戸時代は近・銀・銅を使った、三貨幣制度であった。ややこしいのが、、地域によって異なること。   名古屋と金沢を結んだ線より東側の東日本は、金の貨幣を使用して…

樋熊克彦
1か月前
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 智謀の人 大村益次郎 ②

 大政奉還、王政復古の大号令を経て、 徳川慶喜が、江戸城を新政府に差し出した、明治元年。  上野の山、上野東叡山に籠もって、解散の説諭に応じず、通行の官軍を暴殺し…

樋熊克彦
1か月前
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 智謀の人 大村益次郎 ①

 大村益次郎は、日本陸軍の祖である。 この人を知る人は多くはない。  益次郎は、江戸時代末期に長州で村医の子として産まれた。  はじめ、漢学を学び、その後、大坂の…

樋熊克彦
1か月前
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 信長権力と朝廷

 織田信長は、中世の破壊者といわれる。  信長は、尾張、美濃、近江へと領土を 広げていくなかで、伊勢湾、琵琶湖などの海運から得られる、経済力で、将軍・足利義昭を擁…

樋熊克彦
1か月前
10

稀有の智将 細川藤孝

 戦国乱世を生き抜いた、しかも5つの 政権〜室町幕府十三代将軍・足利義輝、 同十五代将軍・義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、仕えた誰からも尊敬の念を持たれ…

樋熊克彦
2か月前
19

 大久保利通 ②

 明治新政府の大久保利通。  まず、明治政府は、天皇の下に、 日本国というものを作っていくことを、 目指した。  具体的にいえば、庶民に自分は、 国民なんだぞ とい…

樋熊克彦
2か月前
13

 大久保利通 ①

 大久保利通は、薩摩国に生まれた。 西郷隆盛は、三歳年上だが、幼少の頃から極めて親しい間柄だった。  幼少時代の大久保は、学問は優秀だが、武芸は得意ではなかった。…

樋熊克彦
2か月前
10

秀吉の小田原城攻め

 豊臣秀吉は、農民の子から、天下の兵馬を束ねる、最高権利者になった。  その総仕上げは、北条氏政・氏直父子が、擁する小田原城攻めであった。    この小田原城、あ…

樋熊克彦
2か月前
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電流の如き人 吉田松陰

 松下村塾。  いわずと知れた、幕末の吉田松陰が叔父から 受け継いだ、寺小屋みたいなもの。  その塾から、幕末、明治にかけて、 走り抜けた、志士や政治家や総理大臣…

樋熊克彦
3か月前
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立花宗茂 生涯無敗の男

 戦国武将・立花宗茂の勝率は十割、  生涯無敗であった。 秀吉の朝鮮出兵の、文禄の役一一碧蹄館の戦いでは、李如松ひきいる明・朝鮮連合軍十五万余に対して、三千の兵を…

樋熊克彦
3か月前
13

 ジョン万次郎 ②

 日本に帰る決意をした、万次郎。 1851年に薩摩藩領だった琉球に上陸。 番所などで半年間、尋問を受け、 薩摩本土に送られた。  万次郎は、薩摩藩でも厚遇された。 藩主…

樋熊克彦
3か月前
10

 ジョン万次郎 ①

 土佐の漁師、ジョン万次郎は、江戸時代の1841年、足摺岬の沖合で、操業中、 強風で、数日間、漂流し、伊豆諸島にある無人島に漂着した。  そこに、ホイットフィールド船…

樋熊克彦
3か月前
9
 織田信長と地球

 織田信長と地球

 織田信長は、ヨーロッパ人宣教師から
地球儀を貰い、地球は球体だと理解していた。これは有名な話。だが、重要なのは、信長がこの知識を家臣や子どもに
教え、広めようとした点である。
 信長はオルガンティーノ司祭とロレンソ修道士を「多くの武将の前に呼び、外にいる者も聞けるように彼らがいた広間の窓を開けさせた」うえで「地球儀をふたたびそこへ持ってこさせ、それについて多くの質問をし反論した」(フロイス『日本

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晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ②

晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ②

 山岡鉄太郎(鉄舟)の一番のハイライト、その行動力、胆力を示したのが、明治戊辰の朝廷の駿府の大総督府への往還である。
 鳥羽伏見の戦いで、薩長に敗れて、
徳川慶喜は江戸に帰り、もっぱら恭順謹慎の意を表していた。しかし、部下に不平の徒輩ありという風聞があった。
 薩長は、新政府を京都に樹立し、大総督府として、兵を進め、駿府に着いた。
 徳川氏の吏員、旗本八万騎といわれる武士、ただ、いたずらに議論に終

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晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ①

晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ①

 鉄太郎の家は、世々幕府に仕えて、
 禄600石。
 鉄太郎、12、3歳の頃、剣道の諸大家の門を歴遊し、浅利又七郎に逢って、
親しく其教えを受けた。
 浅利又七郎、伊藤一刀斎の流を汲んで、すこぶる剣技に達していた。殊にその突きの術は精妙正に神技とも称すべきもので、常勝将軍の概があった。
 鉄太郎、其門に入りて練磨刻苦、
例えば、鉄太郎、黙視多時、竹刀を擁して自ら眠りにつく頃を窺って、師は俄に突撃し

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毛利家の外交僧 安国寺恵瓊      

毛利家の外交僧 安国寺恵瓊      

 世にも、不思議な大名がいた。

 鎌倉以来、安芸一国(現・広島県西部)に号令してきた守護大名・武田氏の直流に生まれ、下剋上の風波を受けて、
お家騒動の最中を毛利元就に付け入られ、ついに実家は滅亡。四歳の遺児となったその子は、家臣にともなわれて安芸安国寺(現・広島市東区)に逃げのびた。青年僧として、成長し、臨済宗の五本山の一・東福寺(現・京都市東山区)の名僧の竺雲恵信の弟子となった。
 師の一字を

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 戦国・江戸時代のお金の歴史

 戦国・江戸時代のお金の歴史

 江戸時代は近・銀・銅を使った、三貨幣制度であった。ややこしいのが、、地域によって異なること。 
 名古屋と金沢を結んだ線より東側の東日本は、金の貨幣を使用していた。いわゆる「金遣い」。
 一方、西日本は、「銀遣い」で、銀の貨幣が流通していました。
 なぜ、東西で違うのか?
 東日本はの金遣いは、佐渡や伊豆、伊達政宗のいた陸奥の金、武田信玄の甲州金などに代表されるように、東日本には金を産出する金山

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 智謀の人 大村益次郎 ②

 智謀の人 大村益次郎 ②

 大政奉還、王政復古の大号令を経て、
徳川慶喜が、江戸城を新政府に差し出した、明治元年。
 上野の山、上野東叡山に籠もって、解散の説諭に応じず、通行の官軍を暴殺し、軍用品を奪うなど、傍若無人の輩がいた。彰義隊である。
 朝廷、ここに至って、大村益次郎を
軍防事務局判事として、東下させ、
彰義隊に処することになった。
 軍議の結果、益次郎のたてた彰義隊討伐の軍配は、上野黒門口を薩摩藩に
攻撃せしめ、

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 智謀の人 大村益次郎 ①

 智謀の人 大村益次郎 ①

 大村益次郎は、日本陸軍の祖である。
この人を知る人は多くはない。

 益次郎は、江戸時代末期に長州で村医の子として産まれた。
 はじめ、漢学を学び、その後、大坂の
緒方洪庵の適塾に学ぶ。それから、当時の新知識の供給所であった長崎で学んだ。
 
 27歳にして、適塾を辞して、郷里に
帰り、医業を開いた。しかし、全く
流行らず、西洋の学問を基礎として、
兵学をしようとした。
 大村益次郎の、人を医す

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 信長権力と朝廷

 信長権力と朝廷

 織田信長は、中世の破壊者といわれる。
 信長は、尾張、美濃、近江へと領土を
広げていくなかで、伊勢湾、琵琶湖などの海運から得られる、経済力で、将軍・足利義昭を擁し上洛を果たし、室町幕府を再興し、朝廷を建て直していく。
 はじめは、朝廷は信長の力で御所などを再建されたことを喜び、信長をたたえていたのだが、信長の力が全国規模に波及する中で、足利義昭の策略による、信長包囲網が形成された時も、ピンチでど

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稀有の智将 細川藤孝

稀有の智将 細川藤孝

 戦国乱世を生き抜いた、しかも5つの
政権〜室町幕府十三代将軍・足利義輝、
同十五代将軍・義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、仕えた誰からも尊敬の念を持たれた、稀有の人物に、
細川藤孝(号して幽斎)がいる。
 父は室町幕府三代将軍・義満から分流した和泉国の松崎城主で幕臣・三淵家の
当主であった大和守晴員(はるかず)である。
 幼少期を母の実家・少納言清原宣賢のもとで養われたことが、細川家の命

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 大久保利通 ②

 大久保利通 ②

 明治新政府の大久保利通。

 まず、明治政府は、天皇の下に、
日本国というものを作っていくことを、
目指した。
 具体的にいえば、庶民に自分は、
国民なんだぞ という意識を植え付けたかった。
 そのため、江戸時代まで、威張っていた武士というものを見直していった。

 江戸時代まで、藩 という小さな国が
割拠していた。その藩の藩主に、藩の土地と人民を朝廷に返しますという、版籍奉還をさせた。これは、

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 大久保利通 ①

 大久保利通 ①

 大久保利通は、薩摩国に生まれた。
西郷隆盛は、三歳年上だが、幼少の頃から極めて親しい間柄だった。
 幼少時代の大久保は、学問は優秀だが、武芸は得意ではなかった。
 大久保も薩摩独特の、郷中教育(年長者が年下のものを指導していくもの)
を受け、精忠組(西郷を中心とした急進派若手グループ)の影響下にあり、
西郷らと切磋琢磨していた。
 だが、父の大久保利世が、疑獄に連座して島流しとなったことで、二十

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秀吉の小田原城攻め

秀吉の小田原城攻め

 豊臣秀吉は、農民の子から、天下の兵馬を束ねる、最高権利者になった。

 その総仕上げは、北条氏政・氏直父子が、擁する小田原城攻めであった。
 
 この小田原城、あの上杉謙信・武田信玄も落とせなかった、天下の堅城であった。
 あの謙信、信玄が落とせなかったのだから、上方の猿が、なにする者ぞと思っていた節がある。そう思っても仕方がないかも知れない。

 しかし、豊臣秀吉は、全国の兵をこぞって、北条氏

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電流の如き人 吉田松陰

電流の如き人 吉田松陰

 松下村塾。

 いわずと知れた、幕末の吉田松陰が叔父から
受け継いだ、寺小屋みたいなもの。

 その塾から、幕末、明治にかけて、
走り抜けた、志士や政治家や総理大臣まで、輩出した。
 
 とにかく、松陰先生は、人の良い所を
見つけて、褒めるのが、うまかったらしい。
 吉田松陰自体が、電流を体に帯びた人で、ペリーが、浦賀に来た時、
弟子の金子重輔と、アメリカに渡ろうとした。だが、ペリーに追いかいさ

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立花宗茂 生涯無敗の男

立花宗茂 生涯無敗の男

 戦国武将・立花宗茂の勝率は十割、
 生涯無敗であった。
秀吉の朝鮮出兵の、文禄の役一一碧蹄館の戦いでは、李如松ひきいる明・朝鮮連合軍十五万余に対して、三千の兵をもって日本軍の先陣を切り、大勝をあげていた。
 同じ文禄の役〜晋州城の戦いでは、
十万と号する大軍(実数四万八千)を
自ら反撃の先鋒をつとめ、五百人近い犠牲を出しつつも、明の大軍を打ち破っている。
 関ヶ原の戦いでも、西軍に属しながら

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 ジョン万次郎 ②

 ジョン万次郎 ②

 日本に帰る決意をした、万次郎。

1851年に薩摩藩領だった琉球に上陸。
番所などで半年間、尋問を受け、
薩摩本土に送られた。
 万次郎は、薩摩藩でも厚遇された。
藩主 島津斉彬が、みずから万次郎に海外の情勢や文化を質問し、斉彬の要請に
応じて、藩士や船大工らに洋式の造船術
や航海術を教えている。
 薩摩藩での取り調べののち、長崎奉行所で、長期尋問を受け、土佐藩に帰る。
 2ヶ月間、取り調べを受

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 ジョン万次郎 ①

 ジョン万次郎 ①

 土佐の漁師、ジョン万次郎は、江戸時代の1841年、足摺岬の沖合で、操業中、
強風で、数日間、漂流し、伊豆諸島にある無人島に漂着した。
 そこに、ホイットフィールド船長が、
率いるアメリカの捕鯨船が、やってきて、143日ぶりに、救出された。
 救助されたが、当時の日本は、
鎖国しており、外国の船は、容易に近づけなかった。ホイットフィールドは、
マサチューセッツ州に帰港して、万次郎も連れて行った。

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