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晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ②
山岡鉄太郎(鉄舟)の一番のハイライト、その行動力、胆力を示したのが、明治戊辰の朝廷の駿府の大総督府への往還である。
鳥羽伏見の戦いで、薩長に敗れて、
徳川慶喜は江戸に帰り、もっぱら恭順謹慎の意を表していた。しかし、部下に不平の徒輩ありという風聞があった。
薩長は、新政府を京都に樹立し、大総督府として、兵を進め、駿府に着いた。
徳川氏の吏員、旗本八万騎といわれる武士、ただ、いたずらに議論に終
晴れてよし曇りてもよし富士の山 山岡鉄太郎(鉄舟) ①
鉄太郎の家は、世々幕府に仕えて、
禄600石。
鉄太郎、12、3歳の頃、剣道の諸大家の門を歴遊し、浅利又七郎に逢って、
親しく其教えを受けた。
浅利又七郎、伊藤一刀斎の流を汲んで、すこぶる剣技に達していた。殊にその突きの術は精妙正に神技とも称すべきもので、常勝将軍の概があった。
鉄太郎、其門に入りて練磨刻苦、
例えば、鉄太郎、黙視多時、竹刀を擁して自ら眠りにつく頃を窺って、師は俄に突撃し
毛利家の外交僧 安国寺恵瓊
世にも、不思議な大名がいた。
鎌倉以来、安芸一国(現・広島県西部)に号令してきた守護大名・武田氏の直流に生まれ、下剋上の風波を受けて、
お家騒動の最中を毛利元就に付け入られ、ついに実家は滅亡。四歳の遺児となったその子は、家臣にともなわれて安芸安国寺(現・広島市東区)に逃げのびた。青年僧として、成長し、臨済宗の五本山の一・東福寺(現・京都市東山区)の名僧の竺雲恵信の弟子となった。
師の一字を
戦国・江戸時代のお金の歴史
江戸時代は近・銀・銅を使った、三貨幣制度であった。ややこしいのが、、地域によって異なること。
名古屋と金沢を結んだ線より東側の東日本は、金の貨幣を使用していた。いわゆる「金遣い」。
一方、西日本は、「銀遣い」で、銀の貨幣が流通していました。
なぜ、東西で違うのか?
東日本はの金遣いは、佐渡や伊豆、伊達政宗のいた陸奥の金、武田信玄の甲州金などに代表されるように、東日本には金を産出する金山